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専業主婦からフリーランスを選んだ理由

皆さん、こんにちは。
フリーランスWEBデザイナーのAtelieMetです。

今日は、専業主婦だった私がフリーランスという働き方を選んだ理由についてお話したいと思います。


ごく普通のOLだった

学校を卒業し、地元企業に就職。
製造業の生産計画という、ごくごく普通のOLでした。
社会人としての基本的な事はこの時期に教えていただきました。
先輩に指導してもらい、現場の方にも怒られ(笑)
でも、社内外問わず、人と関わるのは楽しかった。
めちゃくちゃ怒られて大嫌いだった部長さんも
悔しくて泣きながら教えてもらい
最終的にはすごく可愛がってもらえて。
苦手な相手でも、少し歯車が噛み合っていないだけで
勇気を出して自分から飛び込んでみると
関係性が変わる事もあるんだと実感した経験でした。

結婚、転勤、出産

結婚し、半年後に主人に辞令が出ました。
まだ新婚でしたし、会社を辞める事に迷いはありませんでした。
6年半務めた会社を辞め、広島県へ。
生まれ育った地元を初めて出ました。
仕事もなくなり、周りに知り合いが一人もいない。
主人は出張ばかりでほとんど家にいません。
私は何のためにここに居るんだろう…
ずっと仕事をしていたせいもあり、完全に抜け殻状態でした。
朝起きた瞬間から『私今日何のために起るんだろう?』と。

これではいけないと思い、仕事を探すことに。
ただ、定期的に転勤することを考えると
同じところで長く働くのは難しい。
どうしても小売業の替えの効くパートしか
選択肢はありませんでした。

自宅近くの小売店でパートが決まり
主人にも「働いてる方が活き活きしてる」と言われましたが
約1年で主人に次の辞令が。
やっと職場にも慣れてきて、新しいお仕事も任されるようになった矢先でした。

そして、次の転勤先の東京へ。
前回の反省を活かし、引っ越しして半月でパートを探し
すぐに働き始めました。
そして1年経った頃に妊娠。
つわりが酷く、仕事に行ける状態ではなかったため
休み続けることに罪悪感を感じ退職。
申し訳なさでいっぱいでしたが、自分の体の変化に戸惑うばかりの日々。

そして無事長女を出産。
初めての育児はノイローゼになりながらも
目の前のことに必死でした。

まさかの海外転勤

長女が2歳になり、少し育児にも慣れてきた頃
体調不良が続くので、検査したところ2人目の妊娠が分かりました。
主人に報告しようとしたところ
「俺も報告がある」と。
まさかのオランダへの転勤でした。
妊娠判明と転勤の内示が同じ日。
一瞬言葉を失いました。

まず考えたのがどこで生むか、です。
1人目の出産が帝王切開だったため
2人目もそうなるであろう事が予想されました。
海外で手術することにどうしても不安があり
(言葉の面でうまく説明できる自信もなく)
主人が先にオランダに行き、生活を整え
出産して2ヵ月で私と娘は渡蘭することにしました。

オランダ生活

結局主人は出産には立ち会えませんでしたが
息子を無事出産し、2ヵ月になるのを待って渡蘭。
半年間離れて暮らしていたので
やっと家族で生活できると思うと
この先の海外生活の不安よりも嬉しさの方が勝り
何があっても家族で一緒に頑張ろう!と
スキポール空港で誓いました。

最初こそ、右も左も分からない
欲しいものがどこに行けば買えるのか
息子のオムツはどれを買えばいいのか
そもそも通貨が違う。
セントとユーロ。
何がいくらで買えるの?
日本の常識なんて通用しないし、価値観も文化も違う。
主人はその頃本当に激務で、月に3~4日しか家にいないような状態。
3歳の娘と2ヵ月の息子を抱え、毎日本当に必死でした。

そんな中で生活の質が向上していったのは
オランダの日本人コミュニティのおかげでした。
コミュニティと言ってもかしこまったものではなく
お友達がお友達を紹介してくれて
どんどん友達の輪が広がっていく
そんな感じで、ママ友がたくさんでき
電車に乗る時はこうするんだよ
キャベツはとがった三角のが美味しいよ
ここは治安が良くないから行かない方がいいいよなど
本当にたくさんの事を教えてもらいました。
ここの公園楽しいから、今度一緒に行かない?と声を掛けてくれ
子供たちもたくさんお友達ができ
ずっと家に引きこもることなく楽しく過ごせたのは
オランダで多くの方に支えてもらったお陰だと
心からそう思います。

主人の事務所の移転もあり
オランダ国内で引っ越しも経験しましたが
引っ越し先でも同じように
日本人コミュニティがとても心強い存在でした。

本帰国、浦島太郎状態

約5年間のオランダ生活を送り
日本への本帰国が決まりました。
次の場所は広島。
それまで年1回は帰国していたし
言葉も通じる、ご飯も美味しい、何より日本人は至れり尽くせり。
困る事なんてないだろうと思っていました。
しかし、思っていた以上に5年間の変化は大きく
妖怪ウォッチや恋ダンス、スカイツリーの完成なんかも知りませんでした。
何より子供たちは日本での小学校、幼稚園は初めて。
2人とも日本人学校ではあったものの
制服、集団登下校、給食、掃除…
オランダの学校にはない事ばかりで
慣れるまで大変だったようです。
長女は割とすぐに馴染むタイプでしたが
息子は半年間毎日泣きながら登園していました。

私は私で、日本のPTAや子供会、ママ友や先生との距離感等が分からず
日々手探り状態。
日本を離れたタイミングが、子供たちがまだ小さかったこともあり
自分の地元でもないし
日本の小学校の制度に慣れること、生活を整えることに
約1年ほどかかってしまいました。

そろそろ働ける?

少し生活も落ち着いてきて
改めて自分の事を見直せる余裕が出てきました。
そろそろ働きに行けるんじゃないか?
そう思い、まずは週3日4時間のパートを始めました。
インテリアが好きだったこともあり
インテリアショップの事務を担当しました。
しかし4時間は本当にあっという間で
もう帰らないと幼稚園のお迎えに間に合わない!
他の人たちは働いてるのに先に帰るのは申し訳ない
私ももっと働きたいのに…
モヤモヤした気持ちを抱えたままお迎えに行く
そんな日々でした。

そうこうしていたら、まさかのパート先の閉店が決まり
10ヶ月で退職。
また無職に戻ってしまった…

資格を取れば、すぐ仕事につけるはず

働きたいけど短時間しか働けない。
となると、単価を上げないといけない。
転勤もあるし、できれば在宅の仕事がいい。
そう考えた私は、主人の勧めもあってパソコンスクールに通い始めました。
昔からデザインを見るのも好きだったし
PCなら何時間触っていても苦ではなかったので
WEBデザイナーのお仕事がいいのではと考えました。
パソコンスクールで
・Word、Excel
・Photoshop
・Illustrator
・WEBクリエイター
の資格を取り、さぁ仕事がどんどんできるはずだ!と確信していました。


挫折の日々

しっかり資格も取ったし
高単価の仕事がたくさんあるものと思っていました。
どこでも採用してもらえるものだと。
それが大きな勘違いでした。
まず、この業界は実績が何より大切ということ。
実績がなければ、その人がどのレベルなのか全く分かりません。
何ができるのか、採用する側も判断できないのです。
分かります、知識はあります、では通用しないのです。
むしろ、実績があれば資格なんて必要ないと言ってもいいほど。
現に、私も未経験のまま何社も求人に応募し、書類選考で落ちる日々。
面接までたどり着けたとしても
「実績はないんですが」と言うと、明らかに顔色が変わる。
もちろん結果は不合格。
お祈りメールを何通ももらいました。
今までこんなに求人に応募して落ちることを経験した事がなかったので
せっかく資格まで取ったのに…どんどん落ち込んでいきました。

更に感じたのは年齢的なこと。
IT業界は、やはり平均年齢が若いです。
若い子のアイデアや対応能力、のびしろに企業は期待しているのです。
私のようなアラフォー未経験者は完全に不利。
言ってしまえば見向きもされません。
その現実を目の当たりにした時、絶望感でいっぱいになりました。
私、何をやってきたんだろう…

新たな挑戦

そんな時にある方に出会いました。
フリーランスのWEBデザイナーをされている方ですが
コンサルティングもされています。
その方もやはり40代未経験WEBデザイナーで雇われるのは
かなり厳しいだろうと言われていました。
そこで教えていただいたのが、フリーランスと言う道。
自分のペースで、自分がやりたいようにやれる
在宅でどんな場所でも働ける
40代という人生の経験が役に立つのがフリーランスですと言われ
希望を持つことができました。

確かに、企業さんが若い子たちを採用したい気持ちも分かる。
でも私にしかできないこともあるんじゃないか
家族との時間や自分の時間も大切にしたいし
家のことも手を抜きたくない。
例えまた引っ越したとしても
継続してお仕事ができる
フリーランスなら、それが出来ると思ったんです。
一気に希望を持つことができました。

まとめ

そんなこんなで、専業主婦がフリーランスになろうと思った理由を
お話しました。
特にアラフォーあたりになってくると
自分の人生が見えてきて、諦めも出てくる頃だと思います。
まぁこんな感じで歳をとっていくんだろう、と。

でも、まだまだやれる、変われるんだと私は思っています。
その後のお仕事獲得までのお話はコチラ。
良かったら読んでみて下さい!


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