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オツキーとの和解

私は月のことをオツキーと呼んでいる。
彼女との間の、ちょっとしたワダカマリを乗り越えた末の愛称である。

私は学生時代にそれに似たあだ名で呼ばれていて、月モチーフの指輪を中指にし続けていた。闇夜に一筋の救い的な光を投げかけてくれることや、嫌いなプールの授業を見学する印籠になってくれたこともあり、オツキーは頼もしい親友のように思えないこともなかった。

ただ一点、彼女とのシンクロにはいささか煩わしさを感じていた。
これがその、ワダカマリというやつだ。

オツキーが満ちる、欠ける、消える。

私の心身も満ちる、欠ける、消沈する。

嗚呼、面倒。

繰り返される日常の中で、私のコンディションは綺麗に波線を打つ。このことのやるせなさに漏らしたため息はいったい幾つになろう。(全て繋いだらそれなりに立派な雲になって彼女を覆うことさえ容易な気もする。)

ある時、そんな好きでいて嫌いなオツキーとの微妙な関係を、和解に導いてくれる言葉に出会った。

「おふくろの味なんてのは、実は決まった味じゃあないんですよ。むしろ、いつも違うの。おふくろさんは月の満ち欠けで味覚が微妙に変わる。出てくる度に何となく変動するその味の触れ幅こそが人々のノスタルジーに繋がっていたりするわけです。」

日々の所感、歩く速度、目に留まる景色、心地よいと感じる色、味、香り。そして感情。
自分の意思とは関係ないところでそれらが変化するということは、自動的に日々違う感性で世界と対峙できているということなのかもしれない。

私はよく、四季のある国に生まれて良かった、と思う。その感性をもってすれば、オツキーに翻弄される心身をも歓迎してやれるのではないかとふと思ったのである。

(もっともこの言葉に出会ったとき、私は誰のおふくろでも無かったけれども!)

あれから、何をしても溜息が出てまどろんでしまう日も、何をしてもテンポよくうまくいく日も、その時々の自分が感じる幸福と憂鬱をまじまじと鑑賞してみることにしている。

料理に限らず、おふくろの味的な妙味はきっと存在するのであろうから。

オツキーは私の頭上を今日もゆく。
彼女との甘ほろ苦い腐れ縁に、乾杯。

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発行所:アトリエはなこ
著者:はなむらここ
atelierhanaco@gmail.com


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