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武蔵国の武士団:横山党

前回の投稿から少し時間が空いてしまいましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。私は前回の投稿以降、周辺の史跡や神社仏閣を巡り取材を重ね、ようやく武蔵国の歴史をつかめてきたような気がしてきました(とはいえやっと糸口が見えてきた程度なのですが…)。
まずは、現在までに分かってきたことをいくつか投稿予定です。
武蔵国の歴史おもしろいです!この面白さを誰かと共有したいと思い、noteをはじめました。
どうぞよろしくお願いいたします。

前回までの記事

多摩市立図書館 本館で資料探し
町田・相模原史跡散策(1) | 境川ゆっくりロード周辺 |
町田・相模原史跡散策(2) | 境川ゆっくりロード周辺 |
小野神社 | 小野篁と多摩地域 |東京都町田市小野路町

[前回あらすじ]
小野たかむらの7代後の子孫、小野孝泰たかやすが小野篁を祀ったのがはじまりとされる小野神社について調べた。現在の八王子を中心に活躍した武士団「横山党」との関連もあるらしい。そして、横山党は多摩周辺の史跡に頻繁に登場する気になる存在である。

[今回]
武士団横山党とはいったい何なのか。
武蔵国の歴史を紐解く上で非常に重要なことのように思い、調査をしたので、その内容についてまとめる。


横山党概要

多摩地域の史跡に頻繁に登場する「横山党よこやまとう」。
私はまったく聞き馴染みがなく、「党」という言葉から、政治的な派閥のような印象を受けたが、そうでもないらしい。
Wikipediaで確認したところ、冒頭の説明は以下の通り。

横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。武蔵七党系図の筆頭。

Wikipedia「横山党」より引用

「横山」の由来

八幡八雲神社ウェブサイトより

横山党は、現在の八王子市元横山町がはじまりとされており、同地に現存する八幡八雲神社はちまんやくもじんじゃのウェブサイトに以下の説明があった。

「八幡神社の創立」
八幡神社の創立は延長2年(924年)、武蔵盛隆泰が国司の時、此の地へ石清水八幡宮をまつり、国土安全を祈願したのが当社の起源です。
その後、隆泰の長子、小野義孝は武蔵権之守に任ぜられて当地に来り、父の遺志を継いで八幡宮を再建し、任期が満ちたので此地に永住することとなったのです。
そしてまず小野氏を横山氏と改め、追々当地を開拓し、遂に一村落を形造り横山村と呼びました。

八幡八雲神社WEBサイトより引用

横山村創設者である小野義孝よしたかは、前回の記事で扱った「小野神社」に篁を祀った小野孝泰たかやすの息子である。
彼らは小野たかむらの後裔であることから、「横山党は小野篁の後裔による武士団だ」という情報は確かなようだ。
たかむらのネームバリューによるものなのか、他に何か重要な繋がりがあるのか、現時点では見出だせていない。
ともあれ、小野改め横山義孝は、八幡神社を中心に祭政一致を行い、その後発展する八王子草創の神ともいえる人物ということになる。


横山神社


仏像ワールドより引用

八幡八雲神社の境内には義孝を祀った横山神社があり、横山党との関わりの深さを感じることができる。


横山党の歴史

■平安時代
・924年(延長2年)、小野氏が武蔵守として着任した際、石清水八幡宮を勧請して、八幡八雲神社を建立した。
・1113年(天永4年)、愛甲内記太郎の殺害事件により追討を受ける。源為義に服属する。
・1156年(保元元年)の保元の乱および1159年(平治元年)の平治の乱では、源義朝麾下(畠山氏に従属との説もあり)に従軍し活躍した。
■鎌倉時代
・『平家物語』によると、治承・寿永の乱でも活躍し、小野成綱は尾張守護に補任された。
・源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山荘の所領を安堵された。
・1213年(建暦3年)和田合戦で、姻戚関係にあった和田義盛に加勢したが和田氏と共に敗れ横山時兼とその一党は、その後横山党としては歴史の表舞台から消える。横山党本拠地であった横山荘は大江広元に与えられた。なお、横山氏末裔として、横山氏居館のあった八王子市八幡八雲神社に並ぶ妙薬寺(みょうやくじ)には、 横山将監小野秀綱の供養塔がある(妙薬寺縁起)。この宝篋印塔は永禄3年(1560年)に造立されたもので、東京都指定旧跡となっている。
・1214年(建保2年)、大江広元は横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社を八幡八雲神社の境内に創建した。
・1221年(承久3年)、承久の乱で院側についた小野成綱の子尾張守護小野盛綱は、乱後逃亡し守護職を没収された。
・小野盛綱逐電後、跡職に中条家長が就いたといい、1225年評定衆に抜擢される。中条氏繁栄の礎を築いた。

Wikipedia「横山党」より引用

横山党の強み

それは分家の多さによるものと考えられている。
武士団というのは、その兄弟や子・孫ごとに分家し、それぞれ違う姓を名乗ることで勢力を伸ばす性質があるようだ。

横山党の分家についてWikipediaより引用する。

横山、椚田、海老名、野部(野辺、矢部)、藍原(相原、粟飯原)、淵辺(淵野辺)、平子(現在は三浦氏族とする説が有力)、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、小倉、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲、小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、中村、大貫、田名、小沢、小俣、本間、中野、成田、中条、横瀬氏(由良氏、新田氏と自称)、小山など。

Wikipedia「横山党」より引用

こうして見ると、八王子や多摩・町田・相模原周辺の地名として、現在も残されている名が多くあり、千年の時を経てもなお、領主の名がそのまま地名として残ったのだと推察する。
以下の記事で取材した矢部城跡の矢部氏も、上記に名を連ねていて、矢部城跡のある場所は現在も「矢部」の地名が残っており、JR横浜線矢部駅の名の由来ともなっている。

※地名については、元々地名があり、武士団がその地名を名乗るようになったという説も考えられる。
(実際にそういう経緯で名乗っていた武士団もあったようだ。)


まとめ

横山党は八王子という街の創生にも深く関わっていることが分かった。
そして、その分家となっている各々の武士団も、千年の時を経てもなお、地名に残るほど影響のある存在だったことは確かなようだ。
各地の史跡に度々登場することもうなずける。


[参考文献]
Wikipedia「横山党」
八幡八雲神社WEBサイト



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