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遺伝と環境と運命論と自己責任論

今回は,歴史をおおまかにたどりながら,遺伝と環境と運命論と自己責任論について考えてみようと思います。あくまでも,考えていることをざっとおおまかなラフスケッチとして描いてみるだけですので,多分に自分の解釈が入っていることはご容赦ください。


優生学

19世紀後半に優生学という学問が始まり,注目を集めました。優生学の創始者はダーウィンのいとこのゴルトンです。ちょうど19世紀なかばにダーウィンの種の起源が出版され,進化や遺伝の考え方が世の中に広まっていく中で,優生学という学問が生まれていったのです。

辞書によれば,優生学とは
◎悪い遺伝を避けてよい遺伝を残し,子孫を優良にする目的で配偶者の選択や結婚上の問題を科学的に研究する学問
などと書いてあります。

・悪い遺伝を避けて良い遺伝を残す
・子孫を優良にすることを目的とする
・社会的に実践する

このあたりが優生学のキーになるでしょうか。

優生学という学問・思想は,社会的に様々な影響を及ぼしていきます。たとえば障害をもつ人を隔離すること,特定の人種間の婚姻を制限すること,移民を制限すること,何らかの障害をもつ人に対して優生手術を行い子どもを産めないようにすること,などです。こういった社会的な措置の根拠として,優生学は使われていきました。そして極めつけは,ナチス政権によるユダヤ人の大虐殺です。ナチス政権は,最初は障害を持つ人々を積極的に隔離しており,その後に対象が拡大していったのです。

適者生存

この背景には,「もっとも豊かで繁栄している国家,民族,個人が適者だ」という社会進化論の考え方があります。

しかし実際の生物世界における進化は,もっと理不尽なものです。繁栄を謳歌している生物が,突然の天変地異や突然の隔離で一気に絶滅することもあります。実際の生物の世界には,「強い能力が生き残る」という考え方が適用できない運任せの世界があります。

強い者が生き残るのではないのです。生き残った者が結果的に適者なのです。そして,生き残る理由は単純なものではなく,たまたまその環境に有利だったからです。この原因と結果を混同すると,「力があるのだから生き残って当然」という形に歪んで解釈されていってしまいます。

そして自然界では,多様性の維持が種全体を残していくひとつの戦略になります。あらゆる方向性を残すことで,何かがあってもどこかで適者生存が可能になるというわけです。いまの環境で不遇な個体であっても,もしかしたら環境の大変化が起きてその個体が環境に合うようになる可能性はありえる,という考え方をしておくことは重要です。

心理学と優生学

これまでの歴史の中で,心理学も優生学の流れに深くかかわっていました。

優生学の社会実践にいちばん使われたのは知能検査です。知能検査はもともと,学校教育が難しい子どもたちを見分けて特別な教育を行うコースへと促す,スクリーニング検査として開発されました。

ところがこの検査を見た研究者たちは,これこそが人間の知的能力全体を測定する優れた検査だと評価し,「頭の良さ」そして「頭の良い人種を見分ける」ために使うようになっていきます。

そしてたとえばアメリカでは当時,移民に対して知能検査が実施され,非常に悪い結果が出たことが大問題になりました。また優生手術を行う際にも知能検査が使われてきました。

行動主義宣言

20世紀初め,アメリカの心理学者ワトソンは本の中で,「能力,才能,精神的性質,性格の遺伝はない」という結論に達したと主張します。

そして,自分に健康で良い体をした1ダースの赤ちゃんと育てるための特殊な世界を与えてくれれば,適切な環境を用意して,医師でも法律家でも芸術家でも泥棒でも,どのような専門家にでも育ててみせる,といったことを書きます。

いま考えると「そんなことを言っていいの?」と疑問に思うかもしれません。のちの心理学のテキストでも,この一節だけが取り上げられて伝えられていきます。ちなみにこれはとても有名なフレーズですので,本の最初のほうに出てくるのかと思いきや,意外とそうではありません。ですので,ここだけをクローズアップして問題視しながら取り上げた研究者がのちにいた,ということではないかと思います。たしかに印象に残る一節ではありますが。

周囲には優生学者

当時の学問の流れを考えれば,ワトソンの周囲に優生学的な考え方をする研究者が多かったことが想像されます。

それに対してワトソンは「遺伝で決まるのではない!」「家系で決まるのではない!」「遺伝より環境が大切なのだ!」と,あえて周囲に対してカウンターパンチを放っているように思えます。ワトソン自身,本の中で「私は事実より先走っている」とも書いています。あえて強調している様子が伝わってきます。

ワトソンは,遺伝的な構造上の欠陥についてはちゃんと説明した上で,それでも人種や家系のような遺伝的な差異,傾向や特性が遺伝するというのは単なる信仰であって,事実ではないと主張しました。

精神分析学

また別の文脈ですが,フロイトが創始した精神分析学も,考えてみれば環境重視の学問ではないでしょうか。幼い時の経験がその後の問題につながると考えられているのであり,それは遺伝の問題ではありません。ものすごく大雑把に言えば,子どもが育つ環境が問題だということが主張されています。

行動主義と精神分析学

その点で,行動主義と精神分析学は,お互いに相入れない研究領域でありつつも,反優生学的という点で共通点もあるのかな,などど想像してしまいます。

もちろん,方向性はずいぶん違いますけれど。行動主義の考え方に立てば,子どもを育てるのは親じゃなくても構いません。良い環境さえ用意すれば良いのです。でも精神分析学的な立場からは,良い親(「親的存在」などと呼ばれることも)が必要とされそうです。

子育てと女性の社会進出

行動主義の観点は女性の社会進出を促す要因となる,ということにも目を配っておくと良いかもしれません。子どもにとって必要なのは親とは限らず,良い環境なのですから,母親は必要に応じて良い養育環境に子どもを任せて働くことができます。

第二次大戦後,時代は遺伝(家系)よりも環境を重視する方向へと流れていきます。人間を形成するあらゆる特徴は,環境によって形成されるという考え方が当然とされる世相へと移行していったということです。

そういう流れの中で,戦後の一時期には,知能検査に代表される心理検査そのものに対する風当たりも相当に強かったようです。その雰囲気は,私自身が学生時代に心理学を学んだ中でも感じました。私は一人でテキストを書いた時あえて知能の話を多めに書いたのですが,それは自分の中でこの問題について解決を見出そうとしたことも背景にあります。

環境主義への反動

しばらく経つと,また環境ばかりを考えることに対する反動が始まります。まるでブランコのようです。

たとえばトーマスとチェスという研究者たちが,ニューヨーク縦断研究というプロジェクトを行いました。その中で,どうしても育てにくい子どもたちがいることがわかってきます。そういう子どもたちを「難しい子」とか「母親泣かせ」と呼んでいました。

このプロジェクトでは,子どもたちが生まれる前から調査をしています。そこで,生まれてしばらく経って母親泣かせになってしまう子どもが,以前どのような子育てや親の態度を受けてきたかがわかります。また生まれた直後から,両親の子育ての上で何か問題があったのかどうかもわかります。

そこで分析してみると,普通の子どもたちと母親泣かせの子どもたちの間で,生まれてからの子育てには特に明確な違いはありませんでした。むしろ困惑していたのは,そういう子どもたちを意図せず授かってしまった親たちのほうでした。

当時流行っていた,精神分析学的な子育て論を信じていた母親たちは,「子どもがこんなに思い通りにならないのは自分の子育てに何か問題があったからではないか」と悩んでいたそうです。ほとんどノイローゼ状態になってしまった親もいたようです。でも実際にはそうではなかったのです。意図せず一定の確率でどんな親にも,育てにくい子は生まれることがあるのです。

実際,私の家の3人の子どもたちの中には,難しい子もいればとても育てやすい子もいました。たとえ難しい子が生まれたとしても,それは親のせいでも子どものせいでもないのです。どちらにしても,それを受け入れて子育てをするしかないということは,親にかかってくる問題です。

「遺伝ですよ」で救われる人

さて,「それは遺伝なのですよ」と言われることで救われる人たちがいます。

それは「そうなってしまったのは自分の責任なのではないか」「何か道を間違ってしまったのではないか」と考えている人たちです。「その問題は遺伝です」と言ってもらうことで,自分の責任が免責されることになるのです。

しかしその方向で進んでいくと,運命論になってしまいかねません。「それは遺伝なのだからあきらめなさい」という意見です。

「環境ですよ」で救われる人

その一方で,「それは遺伝ではなく環境の問題なのです」という発言で救われる人たちもいます。

それは,「自分で人生を変えていくことができるはずだ」「自分で道を切り開いていけるはずだ」そして「しっかりと援助すれば,必ず道は開けるはずだ」と考える人たちではないでしょうか。それは「何とかなる」と思うことが糧になると考える人たちです。

自己責任

しかしその方向で進んでいくと,自己責任論や家族責任論になってしまう可能性があります。何か問題が起きれば,それは遺伝のせいではなく環境のせいなのだからです。その問題は,その人自身やその人の親たちの責任なのです。

真実は,この間にあるのだろうと信じています。この問題は,どうしても「どちらか」で考えないといけないものなのでしょうか。

そして社会は,さまざまな原因をどのように捉えようとしているでしょうか。どこに軸足を置くかによって,ずいぶんその結論は変わってしまいそうです。

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