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重い障害のある子どもに療育って意味あるの?

先週末、県の理学療法士学会があり、ポスター発表をした。(その準備や、他の仕事や、家族にも色々あって、noteの投稿が滞ってしまった)
学会を通して感じたこと考えたことを書いてみる。

なんで発表をしようと思ったのか

そもそも今回の発表は、病院で働いていた時の先輩に、「療育って意味あるの?」とケンカを売られた(笑)ことがきっかけだ。
もちろん、その先輩は本当に療育に意味がないと思っていたわけではなく、自分たちの世界だけではなく、ちゃんとみんなにわかるようにしろよ、
というメッセージだったと思う。(と信じたい)

たしかに、子どもの自然な成長もあるし、家族や他の支援者の関わりもあるし、療育だけの効果を示すことなんて、無理、と逃げていた。エビデンスエビデンスと、科学的な部分を求められる場が怖かった。

でも、それは自分のやっていることを堂々と言えないということで、それはやっぱり悔しくて。
怖かったけど、やってみることにした。

準備の中での気づき

私が発表の内容に選んだのは、一人の女の子の成長だった。数年間で予想を超えた成長をしたことを、スタッフの誰もが感じていた。
でも、学会だから、できるだけ客観的に、きちんと「評価」しないといけない。誰もが感じていたことだけど、「感じる」ではダメだ。

そう思って女の子の成長を紐解いていったら、気づかなかった色々なことが見えてきた。
最初のころ、得意だとみえていたことが案外伸びていなくて、苦手だったことがどんどん伸びていたこと。
好きな遊びはずっと変わっていなかったけれど、嫌いだった遊びは変化していたこと。
身体の発達とか、コミュニケーションの発達とか、手の発達とか、視覚、聴覚の発達とか、そういう色々な発達が同じ段階にそろったとき、それぞれが繋がって、大きな変化になっていくこと。

重い障害のある子どもも、こうやってちゃんと発達していくんだ。
そして、毎日色んな遊びを通して、繰り返し丁寧に関わる療育は、発達を助けるのに大きな意味かあるんだ。
「感覚」として感じていたことが、「事実」に変わった。
これを積み重ねていくことが、きっと「科学」になる。

今までの自分を反省

重症心身障害児と言われる子どもたちは、一生涯、生活全般に介助がいる子どもたちだ。肢体不自由児や発達障害児と言われる子どもたちよりも、発達できる部分は少なくて、見えにくくて、だから療育の意味はわかりにくい。

「それでも療育には意味がある!」と感情的に叫ぶより、
どんな子どもにも保育や教育を受ける権利があるというより、
医療職は子どもたちの普段の生活をわかってくれないとただ嘆くより、
私たちがしなければならなかったのは、この子達もちゃんと発達するんだよ、というメッセージを送ることだったんだろう。

重症心身障害児の最初の支援者は医療者であるからこそ、感情的で感覚的な言語ではなく、科学的で客観的なデータで示す必要がある。
医療が必要な子であっても、子どもたちを医療の場だけでなく、家庭以外の次の社会にステップアップさせるためには、医療職の理解が不可欠だ。

私は、療育を科学して、その意味を医療の世界の人に伝えたい。
重たい障害のある子どもの場合、お母さんのレスパイトが先になりがちだけど、それも大事だけど、やっぱり子どもの育ちを一番にしてあげたい。

学会を終えて

学会発表はうまくいったかというと、それはよくわからない。内容も稚拙で、科学的だなんてとてもいえない。
私にケンカを売った先輩ともまだ話せていない。
でも、自分の進むべき道みたいなものが見えたことが何よりの成果だ。
とはいえ、具体的にどうしていくかはこれからの課題。
一歩一歩、がんばるぞ。





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