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舞台「ガラスの動物園」優美さに導かれて

タイトルがいまいちなのは自分でも理解している。今回のコロナ禍で「不要不急」と定義づけられる非生産的活動たる芸術は揃って打撃を受けた。舞台はその最たるところでその動向に心が揺れていたために日頃よりアンテナが立っていたところで、かのイザベルユペール主演の舞台「ガラスの動物園」が日本で上演されることをSNSで知って駆け付けるに至った。(普段であれば流れてしまった情報だと思う。)ユペールは現代において最も畏怖・畏敬を受ける俳優であるは間違いないだろう。一方彼女の出演作を私が全て観ているかというとこれは「否」、で身震いするほどの緊張感を呼び覚ます存在(もちろん各種出演作のせいでもある訳だが)であるからこそ、つい体調と相談をしてまたの機会に、と言い続けて見損ねている作品多数という体たらくさではあるが、だからこそ生のそれも舞台のユペールを日本で観られる機会と聞けばそれは見逃せるものではない。

テネシーウィリアムズの作品は、正直言って読んでいなかった。上演日の直前になって今回の上演がフランス語によることに今更思い至って、まずい、それでは字幕を追うだけになってしまうと焦って大至急で「ガラスの動物園」の単行本を取り寄せた。小田島雄志による翻訳の読み易さも手伝って一気にそして非常に面白く読んだ。これは正直意外だった。欲望という名の電車や熱いトタン屋根の上の猫など、いずれもストーリーは知っていたがその背景を庶民層の人間の辛さ厳しさを謳った作品と解していて全く好きになれないと思っていた。(個人的にはウッディアレンの「ブルージャスミン」は大嫌いだ。)しかし、これは覆された。本作が作者テネシーウィリアムズの自伝的(追憶的)作品であるという事実に触れたことが大きい。

我々は本当に日々必死で生きている。いやここは素直に私は、と言い換えよう。運がよかったと神や環境、周囲、両親に素直に感謝の念を抱く日もあれば、なぜ報われないのかと膝をつくような思いや見えない恐怖に蝕まれて身を固くしてただ焦燥に駆られる日もある。世の常といえばそれまでだが、時としてそのバランスが崩れることもある。

舞台に話を移す。本作は演出は極めてシンプル。作品にがアメリカ南部の当時を色濃く映し出す作品であるが、その普遍性を際立たせるためか一切の舞台装置は排されて役者の舞台衣装も現代に置き換わっている。フランス人役者にフランス語によって演じられることによる効果も、受け手の私の語学の未熟さゆえ明確にいえないもののあるのだろう。(当日の劇場はやはり外国人客が多くみられ、特にフランス語は特によく聞こえてきた。)

舞台のユペールは優美そのものだった。立ち居振る舞いの軽やかさと言ったら驚くべきところで、気取りではない「エレガンス」そのものだった。そこで初めてああ、そうなのかとこの作品のもつ優美さに気が付かされた。物語の所々で語られる愛の言葉の真実味と儚さ。生活という名の現実とプレッシャーの中で立ち上がろうとする強さは、間違いなく作者による「礼賛」であり決して「冷笑」によるものではなかったことに初めて気が付いた。弱気ものである姉のローラの忌々しいほどの儚げな様子は、全てにおいて守られるべきものとして愛おしさを交えてとしてそこで描かれていた。

これらは、ユペール他俳優の演技力の高さによって感じさせられるにいたったといえる。演技力の透明度によって観るものに深くこれを印象付けた。

作品の書かれた1940年代当時は遠く離れ、そして自らが年を重ね、世界が大きく動いた今本作がこのような形で上演され、それを観る機会を得たことを非常に有難く思う。

ほら見て月があんなに美しいわ、お願いをなさいよ、という彼女の声は時を超えなんと透き通って響き渡ることだろう。母親の失意の嘆きとその叫びがむしろ明日への大きな一歩として、まるで足を踏み出す未来への雄たけびのように聞こえるのは、作者本人旅立つその日、決意と覚悟の背中に背負ったからに他ならないことを知るのだ。

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#舞台 #読書記録 #テネシーウィリアムズ  

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