20181009_座禅イベント_181028_0006

煩悩測菩提。

この世に生まれるということ。生きているということ。
それは、身体があることに他ならない。
この身体があってこそのこの世。生を受け、この身体と共に在ることでのみ、人生が全うされる。

ならば。この身体をいかに美しく、いかに心地よく、いかに健康に、いかに健全に保つかを考えることは、生きるために全うするべきことではないか。この身体が喜ぶこと、気持ちよいと感じること、美味しいと感じることを追求することこそ、身体を維持し生きる意味ではないか。
それは生きていく上で身体が欲する「欲」、すなわち「煩悩」である。「煩悩」を無くすことは、身体を無くすことでしかない。

この考えが、わたしの中で少しずつ確信となっていく行く一方で、「煩悩」とは悟りを妨げる悪い心、とする仏教の教えが存在することに、わたしは混乱を覚えていた。修行は、「煩悩」を打ち消すこと。煩悩を無くした先の「無」の境地こそが、悟りを開くことと・・・それは真理だろうか?わたしの中に生じた違和感はいつまでもモヤモヤと腹の奥に溜まり続けていた。それでは生きている以上、「悟り」は開けないではないか。悟りを開こうとすることは、「生きること」に抗うことになってしまうではないか。


そんなある日、ある寺院で行われた座禅体験に参加した。座禅のあと、住職とお話する機会をいただいた。そこで、違和感を感じていることをそのまま住職に尋ねてみた。すると、こんな仏教用語があるんですよ、と教えてくださった。

「煩悩測菩提。」

悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)とは、ともに人間の本性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることである。-Wikipedia


住職からこの教えの意味を聞いたとき、世界が変わったかと思うほどの衝撃を受けた。今まで自分がもんもんと考えてきたことは、間違いではなかった!自分の煩悩から逃げず、湧き出てくる煩悩に耳を傾け、煩悩を持つ自分を受容することが、この世で生きながらに悟りを開くことにつながるのだ。

やっぱりね (*´з`)~♪


過ぎる欲はどうかと思うが、自分の身体が発する声に耳を傾けること、は、この世で生きる上で必要なことなんだと思っている。
住職からこの言葉をいただいてから、この言葉はわたしの「座右の銘」となった。






これまでの経験で、なんとか自分の役割に気づくことができました。与えられた役割を全力で全うするため、「わくわく」と「ドキドキ」のど真ん中を走ります。 サポートでの勇気づけ、素直に嬉しいです\(^o^)/