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欧州におけるポピュリズム台頭

【写真:ウィキペディアより「ブタペストの国会議事堂」】

拒否権の発動

 欧州から世界を見る。先日、コロナに係る欧州の予算に関し、拒否権を発動した国がある。ハンガリーとポーランドである。その背景に「権威主義的ポピュリズム」というものがある。

ポピュリズム

 「ポピュリズム」は、ほんの10年ほど前、人々の不満・不安を吸収し、人気を集めるのが定番だった。その勢力は拡大し、実際に権力を握り、持続的に政権を運営、強権的な振る舞いを繰り広げ、国際社会で存在感を示すようになった。 いわゆる「権威主義的ポピュリズム」を、どんな考えの人々が支えているのか。この勢力に抵抗する動きは。 欧州連合(EU)内でも近年特に影響力を高めているハンガリーなどは? 各紙の報道を踏まえ詳説する。

「権威主義的ポピュリズム」

 旧東欧諸国やロシア、トルコなど、いったんは欧米型の「リベラル」を目指そうとした国々が目立つ。今年発足10周年を迎えるハンガリーが典型例。オルバン政権の国家。強権を発揮、国内改革を断行する。一方で、EUなどと鋭く対立。

 ハンガリーは冷戦時代、社会主義陣営の改革派として知られる。1989年の東欧革命、いち早く国境開放し、民主化の先頭に立った。しかし、今は権威主義ポピュリズムの急先鋒(きゅうせんぽう)。

 2010年に権力を握ったオルバン政権が、EUの意向を無視する形で難民を排し、憲法裁判所の権限を縮小し、教育の規制を強化している。

 オルバン首相自身はかつて、民主化の闘士として改革派の若手グループを率いた経験を持つ。ポピュリスト政治家として名を売る今の姿は、180度の変節と映る。

ハンガリーを支える環境

 ハンガリーは戦前はナチス・ドイツに、戦後はソ連の事実上の支配下にあった。従って、秘密警察の監視下にあり、不当逮捕、拷問、虐殺が日常的だった。ブダペスト中心部にある博物館「恐怖の館」にその当時が展示中である。ホロコースト研究で知られる歴史学者が館長であり、その側近中の側近として政権に深く関わる。「リベラルな社会」が国から統一性を奪い、いくつかの異なるアイデンティティー集団に細分化してしまった。しかし、社会にとって重要なのは、国家に基づいた一つのコミュニティーに結集すること。そうしてこそ、連帯感を持つコミュニティーを築けることである。そんな時代だから、人それぞれ違いがあり、人々を結び、連帯意識をつくる。グローバル化に直面し地域のアイデンティティーもまた強まる。ハンガリーに限定したことではない。スペインでも、英国でも、イタリアでも同じです。

ハンガリーは少数民族への対応困難?

「私たちは彼らを少数民族とは見なしません。みんなハンガリー人」

 ハンガリーは均質の国民国家。WW1の戦勝国がそう決め、それ以前はハンガリー人が辛うじて半数を超える程度の多国籍多民族国家であった。WW1前、ハンガリーを中心とする旧東欧一帯には世界が無視できない、ハプスブルク家が支配する「オーストリア・ハンガリー帝国」が広がっており、その中で様々な民族が共存していた。1918年に帝国が崩壊後、民族移動や住民交換、さらに第2次大戦での敗北を経て、ハンガリーの領土は縮小、同時にハンガリー人の割合が増えた。現在のハンガリーでは、1000万弱の人口の9割近くをハンガリー人で占める。一方で、ハンガリーには依然として多くの少数民族が暮らす。ジプシーと呼ばれ差別を受けてきた「ロマ人」もその一つであり、数十万を占めるという。

 現在の政府には多数派ハンガリー人を優先する意識が強い。少数派を軽視しているのでは、との懸念を抱く人々もいる。ベルリンの壁は崩壊し、共産主義を打倒。当初、建国にあたり米国化された。国家と市場を再建するにあたり米国のモデルに従った。2008年に世界金融危機が起き、大きな苦汁をなめることに。その時、外国をコピーするのではなく、自ら歩まなければと悟ったという。2011年に憲法を改正した際、多くの批判が寄せられた。報道や表現の自由が抑圧されている、との声もあります。それもそのはず、ハンガリーには報道や言論の自由がある。その範囲は広い。また、ハンガリーは西欧のようになりたいとは思っていない。

欧米が望む民主化をしない国 ハンガリー

 性的マイノリティーや少数民族に関する問題がすべてに優先されるのも、西欧ならではの現象ですなのです。前述の歴史学者の館長の評価です。

 そのホロコースト研究は国外にも広く知られる一方、被害を過小評価するものだとして批判を浴びたこともある。その一方で、オルバン首相顧問として政権のイデオローグ的な役割を果たし、その影響力は甚大だ。言葉の背後には、「ハンガリー」という国家アイデンティティーを確立し、それを抱く人々を一つのコミュニティーに結集しようとする意図がうかがえる。

 1989年の民主化運動の中にも、このようなナショナリズムの意識がすでに含まれていた可能性は拭えない。旧東欧の民主化運動は、欧米の価値観やライフスタイルを追求する動きでもあるとともに、それまで均一化を迫ってきた共産主義とソ連に対抗してそれぞれの国のアイデンティティーを取り戻す運動でもあったからだ。その動きはかつて、欧米からのグローバル化とともに歩んできたが、あるときから違う目標に向かい始めた。それが、欧米側から見ると「民主化が定着しなかった」と映るのではないか。