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アクションゲームが苦手な理由

わたしは、いわゆるアクションゲーというものがあまり好きではない。

たとえば、ゼルダの伝説が好きな人から、「手持ちの状況をいかにうまく使って敵を倒すか、それを瞬時に考えて実行するのよ。それがうまくいくとほんとうに楽しくて、生きている実感が湧く」という話を聞く。
しかし、わたしは正直それを聞いても、「うーん…?なぜゲームの中でまで頑張らねばならないんだ…?」という気持ちになる。

そう。そもそも、わたしの日常は常にピンチの連続なのだ。必死で頭を回転させて手持ちのカードでできることを考えて、なんとかギリギリ事なきを得ることがほぼ絶え間なく繰り返されている。

たとえば、朝、身体が動かない。
なんとか寝床から這い出れば、既に出勤締切時刻の15分前である。
仕事で指示を出される。頭の中だけで把持しようとすると1個まで・30秒が限界なのだが、それに合わせて指示が出るわけではない。
友達と会う約束をする。余裕を持って出発予定時刻の1時間前には準備を始めるのに、出発2分前になって、その時までに絶対しなければいけなかったことを思い出す。

恐ろしいことに、これは「たまにはそんな日もあるよね」ではない。わたしの日常だ。
いつもそうなのだ。だから疲弊している。

出勤締め切り時刻の15分前に起床しても、最低限髪の清潔感だけなんとかして、服を着替えながらパンを焼き、焼き上がったパンを咥えて家から飛び出し、競輪選手さながらの姿勢で自転車を全力で漕ぎ続け、アクシデントが起こらなければなんとかギリギリ間に合うことはわかっている。
仕事の指示は必ずメモを取り、メモがない状況では「自分は覚えていられない人間だ」ということを伝えてリマインドをお願いすれば甚大な被害には繋がらない。
待ち合わせに関しては、もう「習性」として受け入れてもらうしかなく、10分15分遅れたところでたいした支障の出ない待ち合わせ時刻を設定し(自分で家を出る時間を早めに設定したところでまだ大丈夫と思ってしまうから無意味なのだ)、すべきことはできるなら道中実行しながら向かうようにしている。

おわかりいただけるだろうか、現状、わたしの人生はアクションゲーなのである。
時間制限に伴う焦りの中、「失敗したら迷惑をかける」「ここで耐えないと収入がなくなりうる」「舐めていると思われて嫌われてしまうかも」と気を張り、怯えながらプレイするアクションゲーである。
いわゆるアクションゲーの「失敗したら死」は、日常のこうした要素を強く思い起こさせるのである。

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