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ことばのちから

どんな状態でも私は自分の言葉に責任を持てる人でありたい。
言葉に傷付けられ、そしてその分言葉に救われてきた私だから。

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離人している。
相手が怪訝な顔をしている。話が噛み合わない。自分も何を話しているのかよくわからない。自分の口から音声が発されていることはぼんやりとわかる。

後々、相手の発言や反応から、当時の文脈を合わせて自分の発言を大まかに推測した。
そりゃあこの歳までこの脳みそでやってきたのだから、多少は自分の発言がわかるものだ。

相手を傷つけた。
その場では気づけなかった。離人していると相手の反応も記号に過ぎず、文脈として意味が処理されないのだ。言い訳であり、精一杯の弁明である。しかし落ち着いてから振り返って気づく。私の言葉は相手を傷つけていた、と。

すぐに謝罪をしたいと思う。
離人は言い訳にならない。私の場合、相手にカミングアウトしていないこともあるし、相手が事情をわかっていたとしても言い訳はしたくない。


この病気に、自分の大切な“ことば”のコントロールまで奪われてしまったことを認めたくない。

謝罪の言葉を紡ぐ作業は、精神的に大変な労力がかかる。
傷つけてしまった申し訳なさ。言葉を刃にしてしまった自分への怒り。自分が発する言葉をコントロールできなくなった恐怖。その恐怖を共有できない悲しさ。
やり場のない感情がぐちゃぐちゃになる。

でも、言葉にする手間と労力から逃げちゃダメだ。私はまだ逃げたくない。
私の“ことば”は、まだ病気に奪われたくない。
それは、私が私である前提条件であり、私が私でいられる最後の形態なのだから。

・・・・・・

私は言葉でできている。
高校の担任、養護教諭、医師、看護師、心理士、薬剤師、ソーシャルワーカー。
居場所や薬、情報という形でも支援を提供してくれた。
しかしそれ以上に、いまの私を支えているのは、彼らからの言葉だ。

言葉は人を傷つける。そして人の命を救う。
自己中心的な考え方かもしれないけれど、私は尚も言葉に救いを求める。
諸刃の剣を、慎重に慎重に振り続けることを選んだ。

私が言葉にするのをやめる時、それはきっと病とたたかうのをやめる時だ。


だから私は今日も言葉を紡ぐ。


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