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私にとって”社会的養護”が一番紐解けない。

久々に夜中のnoteを書く。

ここ数年間の私の関心事は 障がいと、虐待について。


岸田ナミさんのnoteは、いつもポップで心が苦しくなっても最後は生きててよかったなと思えるし、

https://note.kishidanami.com/n/n9f35f54e698e


はっぴーの家ろっけんはいつも笑顔で、どんなニュースや特集をされてても笑顔になれるし、なんせ自分が生きてていいかと思える。



五体不満足の乙武さんは、その発信も活動も、5歩も10歩も
日本の未来を変えてくれそうで勇気をもらえる。

(これは寄付のお願いで真剣なnoteなので、別でゆっくり読んでいただきたい。)



それでも、子ども虐待、の当事者や家族の話や活動で
ポップに思えたことは一度も無いし、少なくともそう思うのは大変失礼な感じに受け取られる。


社会的養護出身なんですというと、『大変なんだね』とよく言われるけど
同情されたくないし別に受け入れてるから。そんなふうに重く受け止めなくてもいいんだけどなぁ。

とある社会的養護下での生活を経験したユースの声



だから私はいつも答えを探している。


障がい×◯◯だとワクワクできる切り口があるかもしれない。

高齢者×◯◯だと、将来自分が高齢者になったときにやりたい夢が叶うかもしれない。

社会的養護ははたして、自分を当事者に近づけられるイベントや切り口があるんだろうか?



五体不満足だけどめちゃくちゃかっこいい人も、真剣に生きてる人も、
バリアフリーにはならない社会に怒りながらも生きていく人がいる。


五体満足なのに死にたいって思ったり解離やフラッシュバックいろんなことにしんどくて生きてる人がいる。


正直こうやって書くと、五体満足か不満足なのかはココロにとって関係ない気がしてきた。



身体障害、知的障害、精神障害、医療的ケア児、
家族のカタチ、LGBTQ、不妊、里親、特別養子縁組


カテゴライズされた言葉は並べられるのに、いつもそれらの言葉の受け取る感覚は違う。


なんでだろう。
虐待の障害は、きっとこの家に生まれなければ、
自分には当てはまらなかった”事故の後遺症”みたいな感覚で受け取られやすいのかもしれない。


なんかもっと、当事者に近くなくても
ほっと応援したくなって、理解したいと思えて
温かい発信にできないかなぁ・・・


障がい系は家族がnoteに書いてもよさそうだけど
虐待は当事者や家族がなまなましく書くわけに行かないしなぁ。



と思いながらマイノリティデザインの本を再度読み返してる。

ヒントを探す。



こうやって書いていると、

でも社会的養護ってつまるところ「家族」の話やん?
誰よりもみんな、私達の手に届く話をしてるんじゃないの?と思う様になってきた。(夜の変なテンション)


なのにあんなに遠い世界なのはなぜだろう。

比べるものでもなく。

もやもやともう少し話をしてみる。


#社会的養護
#家族
#家族のカタチ
#多様性



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