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水に葬る(おくる)夏休み《創作小説》


 ある春。
 私は麗らかな陽の射す通学路で、血も凍らせるような妖気と、身も心も緩むような陽気じみた芳香を纏う歪な怪異と出会った。
 ――これは、自分の居場所を探しているかわいいかわいい白猫の、何百年にも渡る伝説の続き。


 * * * * *


 はり【玻璃】

 1.七宝の一つ。水晶のこと。
 2.ガラス。   

 * * * * *



 猫又。桜。海。子供。幼猫。人。境界。想念。葬送。幻想。
 ――きっとこの心についた玻璃色の傷は、消えることはないだろう。




    §




 猫又。
 文字通り二股に別れた尾を特徴とする、猫の怪異。
 人里に時折降りてくるという、山の中に潜む獣。あるいは人家で飼われて年老いて化けてしまったもの。時に人を襲い、時に人を誑かすという、我が国日本に伝わる正真正銘の「化け物」。
 それが世間の皆さんの知識であり、数ヶ月前までの僕の認識だ。もっとも、見たこともなければ飼ったこともない。どう足掻いたって僕にとっての猫又は「伝説上の化け物」でしかなかったのだが。
 しかし、どうしたことか。否、どういうことか。受け入れ難いこの状況は、現実として僕に迫ってきている。

 「うにゃあああああ」

 緑の房を折って大きな大きな腕を右振り左振り。それに合わせて気が抜けるような大音声(だいおんじょう)が部屋に響く。
 僕の目の前にいるこの化け猫は聞いていた話とだいぶ違い、化け物というよりもただの猫であった。
 大きさは獅子ほどあり、僕の語彙力では形容を躊躇うほどに美しい白の毛並みに覆われている。その生き物にあらざる威容を放つ姿は凛としているのに、どこかとても儚い。
 何より。彼女のその長い長い尾は、見事に二つに分かれていた。

 「みにゃあああああ」

 のんきにふさふさに振り回されるその姿は、しかしどこからどう見ても立派な化け物であり、僕が本やテレビで見聞きしたことのある猫又の姿である。
 それなのに。

「猫じゃらしに反応するなよなぁ、猫又さんよー」

 人工的な緑のふさふさを全力で狩ろうとし、人間風情、つまり僕に翻弄されている姿はどこからどう見たってお猫様である。大変可愛らしいがその巨躯がために恐ろしくもあり、なによりその無邪気な姿は普段の皮肉げで超然とした様子とはかけ離れていて、いっそ腹立たしい。

 「ふしゃあああああああ!」

 バシっと両前足で挟んだ猫じゃらしをどうだと自慢気に見せてくるその姿は、まごうことなく猫である。それも幼猫。しかも頭の足りなそうな。……いささかに口が悪いか。

「どうしてこうなったんだろ」

 近づいてきた奴の喉元を撫でれば、呑気にごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らす。それを見て溢れ出てしまう溜め息は、この数ヶ月の間の僕の標準装備だ。

「仕方ないじゃない。だって、あなたは私のことが見えちゃったんだもの」

 しれっと放たれた猫又のその一言にさらに重い嘆息を強いられる。しかしこれが日常だ。
 慣れてきてはいるし、あまり突っ込むこともない。ある程度こいつのことも理解できている。ただ、理解と納得はなかなか同居しないのだと僕は主張したい。

「なあ、おい。猫又さんよ」
「なぁにぃ」
「なんでお前さん、人語を喋れるんだよ」

 僕の切実な問いを鼻で笑い、二つに分かれたその尾を楽しげに、しかし優雅になびかせた。

 曰く、馬鹿なこと訊くのねと、そう小さく笑って。

「――だって私、化け物だもの」

 そう簡単に言ってのけた猫又様は、僕の住む島に長く伝わる伝説の化け猫様だ。

 数ヶ月前、僕の目の前に突然現れてから、何故かこの家に居座っている。



    §



 僕の住む島には、誰もが子供の頃に一度は聞く伝承がある。

『この島には猫又がいる。そいつはそれはそれはたいそう美しい姿をしていて、何十年かに一度、気紛れに島の者の前に姿を現す。そして自分が満足するまで気に入った者の側に居て、突然ふっと消えてしまうのだ。それこそ死ぬ前の飼い猫のように』

『そうして居なくなるその時に、その猫又はこの島のとある場所にこの世で一番美しい花を咲かせるらしい。それは硝子のように色のない色をしていて、その儚さの通りにたった一夜しか咲かない花だそうだ』

 人々が語る話は、たったこれだけ。
 もう何百年もの間他に情報が増えることもなく、だからといって消えることもないままに語り継がれてきた御伽噺。僕の島に伝わる、そんな何とも胡散臭い猫又伝説。島に残る歴史書にも、老人たちの語る口伝にも、これ以上の内容を示すものは無い。
 だがとっても有り難く残念なことに、僕は気まぐれに誑かされた貴重な人間の一人なのだ。

 それは春の初め、学年が上がったある日。
 通学路を普段よりも遅くに歩いていた僕の前に、そいつは現れた。

 満開の桜が連なる道。そこに空から静かに降り立った美しい化け物。
 血も凍らせるような妖気と、身も心も緩むような陽気じみた芳香を纏う、歪な怪異。

 自分は恐怖よりも先に魅せられ、つい奴を見つめてしまった。そいつは僕に気づいて少し驚いた顔をした後、にんまりと、厭な笑みを漏らした。間抜けな顔をしたであろう僕に近づいてきて、鼻息を全身に浴びるような距離で口を開く。

「見えるの?」

 一言、確認しようとすらしていない言葉。
 そいつが『あの猫又』であると気づいた瞬間には、もう声にならない悲鳴を上げていた。

 あれから数ヶ月。
 僕はこの化け物と互いに飼い慣らしたり、飼い慣らされたりしている。



    §



 僕の部屋の窓から見える桜の木は今は青葉で埋め尽くされており、奴の定位置になっている。あまり細くない木の枝に、しかしやはり優雅に座っているそいつに向かって溜め息と一緒に声をかけた。

「んじゃあ、学校行ってくるから。この前みたいに遊びに来るなよ」

 そう、先週ちょうどグラウンドで運動会の練習をしている最中に空を悠々と飛んでいたこいつを見て、思わず飲んでいたスポーツ飲料を吹き出したのだ。勿論、周りの奴等にはこいつが見えていない訳で。だから生徒たちの怪訝な目が僕を刺し、とてもいたたまれない気分になったのは記憶に新しい。

「夏休みなのにご苦労なことねえ」

 どうでもいいけど、なんて語尾につきそうなテンションで言われた言葉に思わず拳を握る。それは僕の通っている中学校の生徒全員が思っていることだ。どこの世界に九月にある運動会のために夏休み中に種目練習を週一で入れてくる馬鹿な中学校があるって言うんだ。いや実際にあるから、こうして支度をしているのだけれど。

「とりあえず、行ってくるから」

 こっちに来いと手招きをすると、ふわりと飛び上がる。仕組みは考えても仕方ないから考えないようにしているが、取り敢えずこいつは飛べるのだ。容姿、喋れる、という特徴と共にある、数少ない化け物らしさだった。
 窓から出してきた頭を軽く叩き、喉元を撫でる。変に猫らしいこいつへのこの行為は割と自分も気に入っていた。気持ちよさそうに喉を鳴らす猫又様に、やっぱり猫かよと笑った。



    §



「あっつい……」
「本当にな! 意味分かんないよな! 信じらんないよな今日の天気!」
「……僕にはお前のテンションの方が信じられない」

 えー、と不満そうに抗議の声をあげる友人を軽くあしらう。お昼を過ぎてようやく終わった本日の練習は、炎天下の中容赦なく僕たち生徒を痛めつけてきた。というより灼熱で炒めてきた。嫌になる。

「そういやさ」

 体育着を着替え終えてから教室に戻ってきた僕に向かって、練習を終えてなお元気な友人が黒板に落書きをしながら話しかけてくる。それを聞きながら、暑さに負けて行儀悪くも机の上に座った。奴も慣れっこなのか、幼馴染だからそういう対象と思っていないのか、少しもこちらに目をむけやしない。そのことにわずかにむっとしながらも、なんだ、と視線だけ返した。

「お前、島外の学校に進むってマジ?」

 一瞬、言われた言葉の意味が分からず立ち止まり、気づいた瞬間には思わず向けていた視線を逸らした。
 何気ないかのように軽く聞いてきた言葉。しかし、その内容がこの島の中学三年生にとっては重たいものだということは、重々分かっていた。
 島にも高校はある。けれど、その高校に進まず本土の学校に進学する奴らも毎回必ずいる。それはつまり、この島を出るということだ。
 そして、僕はその道を選んだ。

「そのつもりだよ。僕は先生になりたいから大学に行くし、それなら高校から内地へ行く方が確実だから」
 できるだけ淡々と答えると、そっかぁと、別段責めるような声でもない返事で返される。
 ……それが尚更、痛かった。

「じゃあ、お別れなのか」

 明確に寂しいという色をつけられた声に、逃げ出したくなった。「僕だって寂しい」と、そう、言いたくなって、でも、寸でのところで止めた。

「十五年もずーっと一緒だと、離れるってなんか実感出来ないなぁ」

 うん、と頷いた僕を見て笑った友人が島の高校に進むということは知っていた。

「最後の運動会、頑張ろうなぁ!」

 そう明るく言ってくれた友人に、やはり頷くことしか出来なくて。
 また来週、と先に教室を出た友人に軽く手を振って、窓の外を見ていた。
 島の友人はみな、生まれた時からずっと一緒だ。兄弟か何かのように、傍にいることを当然ように思って育った。離れるなんて、正直分からなかった。そして自分は彼らから離れる道を選んだ己を、いつもどこかで少し責めていた。

「……あぁ、嫌だなぁ」

 溢れた言葉は、紛れもない本心。
 本心であることは、間違いなかった。
 友人と離れることも、この島を離れることも、教師になりたいという夢を諦められないことも、その全部を分かりきってしまっている自分のことも、それが大人になっていくための下準備であるということも、全部嫌だった。
 少しだけ暗い気持ちになっていた思考を、ふとあの化け物が止める。この数ヶ月で僕の元に居着いた、あの化け物。

「そういや、あいつはどうなるんだろう」
「私? 適当に新しい家見つけるわよ」
「そうだよなあ、お前なら見つけるよな……っ」

 本来なら返ってくるはずのない答えに何の驚きもなく答えた後に、いつかと同じように声にならない悲鳴をあげた。

「なんでいるんだよ! 来るなって言っただろうがこの阿呆っ!」

 教室の窓から涼しげな様子で僕を見つめる化け猫に頭を抱える。どうして言って聞くような奴ではないと気づかなかったのか。
 大きな溜め息と共に叩きつけようとした帰れという言葉は、しかし奴に被せられた言葉で宙に浮いただけ。

「厭だねえ、みんな大人になっちゃって」

 今にも濡れてしまいそうなほど湿っぽい声の響きに、思わず目を見張った。戸惑っている僕を見つめてくる瞳に、さっきの友人の輪郭が重なる。
 え、と零れた言葉にならない音は、今度は別の者によって遮られた。

「ん? お前、何してるんだ」

 バッと、音がしそうなほどの勢いで振り返った先にいたのは、担任の教師だった。同時に後ろで奴が飛び立つ音が聞こえる。あの化け猫がこの場を離れたことが分かって、取り敢えず安堵の息を吐いた。

「あ、せんせ……」
「――お前、今誰かと話してなかったか?」

 彼の言葉に少しだけ肩を震わせてから、思い切り首を横に振る。絶対変な奴と思われただろうけど、取り敢えず全力で否定する。
 そんな僕を見て、と言うよりも開け放された窓を見て、彼は何かとても懐かしいものを見つけたように目を細めた。再び「話してたろ?」と、茶化すように僕を見る。
 何かを感じ取ってしまった僕は、先生に近づいた。でも先生はそんな僕を気にせず、いつまでも窓の外を見ていた。

「……本当に見えなくなったんだなあ、自分」
 誰かに聴かせるでもないような、噛み締めたように呟かれたその言葉。だからこそ、全てを理解してしまった。それが理解できるというのも、たぶん大人に近づいている証拠だということ。でもこれだけは、不思議と嫌ではなかったから。

 だから。

 ――この先生は、たぶん。でも、絶対に。

「先生は。……先生は、猫又に会ったことがあるの?」

 自分で思っていたよりも落ち着いた声が出て、少し安心した。
 彼は僕を見ると、ゆっくり己の後頭部を撫でてから小さく頷く。

「少しだけ、昔話に付き合ってくれるか?」

 反射的に頷いた僕を見て優しく笑った先生はとうに五十を超えているというのに、自分と同じくらいのこどもみたいに幼く見えた。



    §



 家に帰ると、いつもは外の桜に座っているはずの奴が僕の部屋で眠っていた。

「何やってるんだよー」
 軽く声をかけた僕に返事もせず、獅子ほどの大きさの体を器用に丸めていた。
 胡乱な様子に肩をすくめて、そのままに寄りかかる。見た目通りにふかふかとしたその感触とお日様のような薫りに気を良くして顔を埋めれば、微睡むように目を閉じた。

 何分か、何十分か経った頃。奴が小さく口が開く。

「……私ね、飼い猫だったの。もう、五百年以上は前のことだけどね。私が子猫だった時から飼ってくれていた飼い主は、あの人が十五歳になった時に死んだのよ」

 化け物が話し始めたその内容は今日、担任から聞いていた。
 うん、うん、とだけ相槌を打つ僕に、その体を乗せるように寄せてくる。

「水死、というより溺死だった。崖から落ちそうになった私を助けようとして、そのまま真っ直ぐ海に落ちたの。何が起こったか、すぐには分からなかった。集まってきた人たちを見て、私の飼い主が私を助けて死んだことに、やっと気づけたの」

 それは遠い遠い、僕なんかにはどれくらい遠いか分からないくらい過去の話。何百年も続いてきた、悲しみの話。
 猫又の話をしてきた担任も、とても悲しそうに話していた。

『あいつはさ、たぶんずっと飼い主を想っているんだよ、五百年経った今も。あいつの飼い主の家族は、あいつを責めなかったらしいんだ。人に恨まれる訳でもなく、恐れられる訳でもなく、ただ何年も何年も飼い主を想っている内にあいつは猫又になった。死ぬこともできない、飼い主を持つこともできない、化け物になってしまった』

 猫みたいではなく、こいつは本当の猫だったのだ。それが例え、ずっとずっと過去の話でも。

「もういっそ人でも襲ってやろうかと思ったこともあったけど、でもやっぱり出来ないもんなのよね。だって私は人間が憎くて化け物なった訳じゃないから。そんなことばっかり考えて百年以上経った時に、私のことが見える十五歳の少年が現れたの」

『――理由は無いらしいんだ。要は霊感が強い、とかそういう感じなんだと思うんだけど。そうして出会ってしまったら、あいつはその少年や少女に近づく。ただ、飼ってもらうために。そして、俺の前にもやっぱり突然現れたんだよ』

 化け物と過去の少年が語ったのは、世にありふれた様な、でもどうしようもなく悲しい話だった。
 淀みなく、人間の言葉を話すこの化け物の頭を撫でる。

「嫌ね。そうやって出会っても子供たちは私が見えなくなる。時代が変わっても、そうやって子供が大人になっていくのは変わらないの。それを止められないの。こんな化け物でも」

 答えられないでいた僕の頬をその尾で撫でると、すくと立ち上がった。

「背に乗って。……見せたいものがあるの」
 明るいのにどこか湿っぽい声を出したその姿は、また昼間の友人に重なった。



    §



 猫又が連れてきたのは、小さな頃から何十回、何百回と遊びに来た砂浜だった。夜の海は昼間とは全く違う顔をしていて、知らない場所に連れてこられてきたような、奇妙な気持ちがした。
 人一人乗っけてきたのに、いつも通り涼しい顔をしていた化け物は僕に近づき、体を擦り寄せてくる。

「そういや、初めてお前に乗ったな」

 出会ってから何度も飛ぶ姿は見てきたのに、こうした経験は初めてだった。音もなく宙を滑り、星が瞬く夜空の中を飛ぶのはなかなか気持ちが良かった。
 きっと、もう二度と無いことだろうけど。

「怖かったー?」

 からかうように笑ったそいつの鼻先をくすぐると、やめろと言わんばかりに尾で殴られた。痛い。

「ちょっと、あれ見てくれる?」

 意外と強かった殴打によって赤らんだ頬をさすりながら、二股の尾を揃えて指された方を見る。 視線の先には、この島に十五年も住んでいる僕も見たことが無い、小さな小さな岩礁みたいな小島が夜の海に浮かんでいた。
 その島には、大きく、高い、葉も花もついていない古い桜の木が立っていた。
 それは、あまりにも儚いもので、だから。
 ……だから、ちょっとだけあの朗らかな笑みを浮かべていた先生を怨む。
 それは、もうこの後の展開は決まっているから。

 何百年もの、僕と同じ様にこの景色を見てきた子供たちを想う。
 幾度なく繰り返されてきた、玻璃色の御伽噺を想う。

 泣きそうになって、歯を食いしばった。涙を零すのには、まだ早い。結果がどうなるかは教えてもらったけど、でもこの過程は何も教えてもらっていない。だからできるだけ、この化け物に応えてやりたいと思った。

「あのね」

 ぽつりと流れてきた言葉に耳を傾ける。たぶん、最後の会話になるから。
 ふわりと、風もないのに夜の海が薫る。それはきっと、こいつの匂いだ。

「この島を出ても、私を忘れても、あなたは十五歳だった時があって、あなたが過ごしてきた十五年間があって、それは一生消えないのよ」

 それは、僕よりも遥かに長く生きてきたこいつの、精一杯の励ましと強がりだと、すぐに分かった。滲む涙を堪えることを諦めた僕は、思い切り化け物に抱きついた。別れを理解できても、やっぱり納得は出来なかった。

「……あぁ、怖い。怖いよ、本当に怖いさ。お前を忘れることも、この島を出ることも、友人たちが残ることも、大人になったら仕方ないって片付けちゃいそうな自分も。今の自分と変わっていくことが、怖いんだ」

 つっかえつっかえの言葉は、ずっとずっと思っていたことだった。
 子供から大人になる自分を教えてくれたこの化け物は、今きっと僕の目の前からいなくなる。そうしたらきっと僕はもう、時間にも自分にも抗うことができなくなる。

「それでも、あなたは私が見えなくなる。この島を出る。でもね、でも」

 見つけてくれたのが、あなたでよかったと笑う。人間だったらくしゃくしゃな顔をしてるであろう化け物は、やはり会った時と同じように美しくて、どうしても涙が止まらなかった。
 もう一度だけ僕に擦り寄り、そうしてあいつは音も立てずゆっくりと海に入っていった。
 追い縋ろうと、自分も夜凪が生んだのっぺりとした海に這入っていく。ばしゃばしゃと音を立てて、みっともなく追いかけようとして。でも、胸まで水に埋まったところで足を止めた。

 桜の島の奥に浮かぶ月が、黒い鏡の海に光の道を作っている。
 その上を、あの美しい白猫が歩いていた。
 僕は、ただそれを見ていた。

 島の前で立ち止まり空を見つめていたそいつが、ふわりと飛び立つ。かと思えばあの桜の古木に降り立ち、僕の家にいた時と同じように枝の上に優雅に座った。それから僕を見つめて、大きく大きくあの二つに分かれた尾を月夜になびかせた。
 僕の語彙力では形容したくない白い毛を輝かせて「忘れるな」と声のないまま訴えてくる。

 そして。

 ふぅ、とあいつが枯れ木に息を吹きかけた。
 たったそれだけ。その瞬間に。


 玻璃の花びらで彩られた桜の花が、その古い古い木に咲き乱れた。


 伝説で語り継がれてきた硝子とは、たぶん違う。透明なその花びらが月光に照らされ、透明で形のない輝きを放っていた。
 玻璃色の花びらが僕の頬を何度も何度も撫で、この幻想がたった一夜の奇跡であることが簡単に分かってしまった。

「桜の木の下にはって、ことか」

 この野郎、と呟いたその声は、隠しようもない涙声だった。
 ここはきっと、飼い主の海なのだ。
 この玻璃はあの化け物の僕たちへの餞で、飼い主への想いの結晶なのだ。

 「にゃあ」

 そこは水底だと言うのに、足元から小さな声が響く。思わず目を向けると、揺蕩うように白の毛を纏った小さな猫が僕を見つめていた。
 思わず声を出して笑って、それから息を深く吸った。ぱしゃりと、屈んで水面を破る。顔に張り付いていた熱い塩水は、海に溶けて無くなった。目尻の熱も、海に溶けて漂っていく。
 不思議と視界は明るくて。白砂の上に見えた子猫の喉元を、「いつものように」撫でてやる。そうして、くるると喉を鳴らした白猫を抱きしめた。その抱擁にはありったけの感謝と寂しさを込めて。
 子猫を抱えたまま、顔を上げた。そして、あの幻想の島を見る。
 そこにはたった数ヶ月の間一緒にいた化け物がいて、静かに僕を見つめていた。なんとなく、でも当然のように、何を伝えても意味がないと思った。
 我慢できなかった涙は、髪からぽたぽた垂れる海の水に混じって分からないだろう。でも、嗚咽はどうしようもなく漏れてしまっていて。
 それでも、僕はあの化け物をただ静かに見つめていた。
 奴が「にゃあ」と一声鳴き、もう一度玻璃の桜の木に息を吹きかける。
 それきり、僕が「飼っていた」その化け物と最後に現れたいつかの小さな白猫は、花びらの舞う月夜に溶けるように消えてしまった。



    §



 猫又と別れたあの日、自分がどうなったのかよく覚えていない。気づいたら家の自分の部屋にいて、それを別段不思議だとも思わなかった。
 あれから私はやっぱり島を離れて、目指していた教員になった。島の友人とは疎遠になったり、そうでなかったり色々だ。ただ、思っていたよりもつまらない大人にならなかったとは言える気がする。それも、あの化け物のせいなのかもしれないけど。
 あれから三十と一年。教職員として自分の島に呼ばれた時から、なんとなく予想できていたことが起きた。
 何もいない「はず」の場所に向かって焦ったように、来るなよ、何してるんだよと声をかける最上級生の女生徒を見つけた。彼女はこちらに気が付くと、三十年前の私と同じ様に恥ずかしそうな、焦った様子を見せる。
 だから、良かったと。またお前を見つけてくれる奴が現れて嬉しいと。そう、思う。
 それ程に楽しくて寂しくて、――悲しい、夏休みだった。
 いつまでも、いつまでも記憶に残るのは、美しいあの化け物の姿と、いつかに居た小さな白猫の姿。

「……先生。あの、信じていただけないとは思うのですが」

 何故、私にその話をしようとしているのか自分でも分からない。そんな顔で綴られていく言葉に、微笑みを落とす。
 ――これもお前が仕込んだことかなのかな、猫又さん。だとしたらお前には、大人になった僕のことも見えているのか。

「うん、安心して。私も出会ったことのある奴だから」

 あまりにも楽しそうに話す私に、彼女は困ったような顔をした。信じたいような、信じたくないような、そんな顔。
 三十年前の私と同じ顔。
 この子も、きっと。
 今日、心に消えることのない玻璃色の傷が刻まれるだろう。
 僕と同じように子供としての消したくない自分が、海の中に葬られるだろう。水に送る自分を、いつか見ることになるのだろう。
 それはとっても大切なこと。葬送は、残された者のためにあるのだから。
 だから。
 だからこそ、あいつと出会ったことで、あの島に咲く玻璃色の桜の優しくも悲しい真実をしっかりと受け止められる。いつまでもこの島と、あいつを忘れないための、魔法のような夜を迎えられる。
 それって実は、とても特別なことなんだ。

 自分の居場所を探しているかわいいかわいい白猫の、何百年にも渡る伝説の続き。

 物思いに耽っていた私を伺うように見た彼女の頭を、ゆっくりと撫でた。

「ちょっとだけ、昔話に付き合ってくれるかい?」

 これから、僕たちの代わりにあいつを見つけてくれた君と。
 あの、飄々として、臆病で、寂しがりで、不可思議な。


 ――――美しい化け物の話をしようじゃないか。

 

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