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ヴィダル・サスーン / VIDAL SASSOON

わたしはヴィダルの基礎からcutを学びました
多くの美容師はその基礎を学んでる方もいらっしゃると思います

そのヴィダルのスクールで学びヴィダルの基礎
から真逆を発想したと言うある美容師の話を
聞いたので書こうと思います

わたし自身はヴィダルのスクールに行った訳ではなく石山登志子と言う人の講習を受けていました

彼女はヴィダルの基礎から全てを学び
さまざまなhair styleを生み出して
活躍しています、Instagramに作品は載って
るので気になる方はどうぞ

わたしも基礎はヴィダルにあります
しかし、わたしもまた「自分らしさ」
の追求をした人物であり、真逆の発想ではなく
わたしはそこから分解して、ヴィダルの中に
「わたし」と言うsenseを落とし込む事を
考えました

何故なら、わたしはそのヴィダルのstyleが
好きだったからです、凄く、自分のsenseと
linkしました

だからこそ、皆と同じではダメ、
唯一無二の「自分らしさ」の追求
表現力、そのstyleをこの人間にどう落とし込むか?それがわたしの考える「似合わせ」でした

よくメディアでも「似合わせ」のcutについて
美容師が変身cutなどをしているので、
どんな髪質であろうと骨格や雰囲気であろうと
誰にでも「似合う」styleは存在するのです

その似合わせpatternは無限大
そのstylistのsenseでしょ?

どう表現するか、どうimageするか
しかし、わたしは思います、なんでもそうですが
「基礎」をきちんと理解する事、出来る様に
なる事はとても重要であり

髪は髪の流れを読んだり骨格、頭の形、クセにより全く異なります、そこがしっかりと掴み
自分の中で噛み砕き、自分のモノとして
「基礎」として構築されなければ

その先にある「応用」つまり「自分らしさ」
のsenseを落とし込む事は不可能です

しかし、それがでは皆出来ているのか?
いいえ、全然できていない

だから、髪はまとまりはしない、バラバラに
なる、毛先は傷つきそこから枝毛になる
いきなりぶっ飛ばしで自分のsenseだ!
と応用に行こうとする者もいるでしょう

しかし、「基礎」は重要!
家で言うなら土台その土台がグラグラして
いる上に建てても家は保てない
だから壊れるstyleも同じ、だから壊れる

みなさんは美容院に行ってcutし、stylingして
貰って、ん!イイ感じかもと家に帰り
シャンプーして、いざ乾かしたままの状態の
髪を見てあれ?なんか、違うと感じた事ありませんか?

皆さんstyling技術は凄いですからね
幾らでも「ごまかせる」言い方は悪いですが

stylingでごまかしたstyleは
崩れる、壊れる、まとまらない、再現性が
無いのです

いつも髪をstylingするのは誰?
本人(美容師では無い人)もっと言うなら
cutした人物ではない

だからこそ、そこを考えない者は
再現性に欠ける=きちんとcutされてない

cutは簡単ではない、そう感じる人
いいや、これだけ抑えて置けばOK!
と考える者もいるでしょう

しかし違うsenseとは感覚であって
その感覚とは何か?それは計算、緻密な計算
が感覚になる、=senseです

適当に切った髪と計算の上に成り立つcutでは
違いすぎる

もちろんそのstylistは適当にcutした「つもりは」ない、しかし、髪は正直だ
あなたの技術の無さがすべてそこに現れる

そしてsenseは感覚であって計算であって
計算ではない、だだ計算した事=senseには
ならない、この意味を理解できるstylistが
どれくらいいるのだろうか?
なんて、わたしは途方も無い事をよく考えていました

そしてそのsenseの先にあるのが表現力や似合わせ、「自分らしさ」ここで初めて自分らしさ
に行く事が出来る、そこからimaginationする
inspirationする、そうでなければ「自分らしさ」
は完成されない

cutは奥が深いどこまでも追求し続ける必要性しかない、しかし、人は自分に満足しstopする
だからそれ以上先には行けない

これが、「違い」なのです
そしてそれとはまた別に自分だけの「武器」
が必要、それは「唯一無二」と言う事

これがstylistとして突き抜ける事!
キレイ、かわいい、だけじゃダメ
技術が出来る、最新cutだけじゃ、ダメ

流行りのstyleはいつも存在する
なぜなら流行りは皆さんで話し合い決められているから、次これにしましょう!concept、image
全て、fashionからstyleやstylingまで

だから流行りは存在する、その時事実
メディアで取り上げるのは「流行り」
それを周知させるため、だから売ってる服も
それがmainに展開されているのは当たり前

知らない人達は「流行り」に踊らされ
「自分らしさ」originallyを考えはしない

そして流行の先端、流行りを取り入れている
から「最新」であると考える
よく思考したなら解る、それをしている時点で
最新では無い事に、実際は後から追いかけて
いるのだから
最新どころか「遅れている」それに気がつかない

最先端とは「誰もやってない事をする事」
だから流行りはしないし、誰にも受け入れられは
しない、しかし、新たなモノを生み出すとは
そう言う事であり

わたしは「流行り」に左右されてoriginally
が無い事は「普通」であり「つまらない」と
感じる

だから突き抜ける事はない
いつだって唯一無二のそこにあるsenseが
自分を輝かせる方法

自分を知ること、学ぶ事、思考する事
imaginationとinspirationの先に
originallyは存在する

だから突き抜けてfashionableなのだ
それがオシャレで在る事

皆さんは解っていない、「誰かの手の上で踊らされ」影響力のある人物、influencerの言った
事を鵜呑みにするし、「真似る」

真似る事がダメなのではないそこに自分らしさ
を追加しないなら、似合うわけない
だって、その人物とは違う人間だ

いつだって基準は自分にあって
自分が輝ける方法を見つける事

それが誰より突き抜けて輝きを放つ事
しかし、人間はその「本質」を忘れている
気がつかない

これは、何に置いても言える事
わたしは凄い!、わたしは!わたしは!
わたしは!わたしは!わたしは!
それを大声で叫ぶ事しかできない人間

ホラ見てラベルで全身を飾りつけて
アピールする事で自己顕示欲を満たそう
とする人間

それを見てそうだな!と感じる人間

しかし、そんな事しなくとも
ただそこにいるだけで誰もが惹きつけられる
「言葉」「行動」「やっている事」「思考」
「人間性」唯一無二のoriginallyで溢れている
人間は誰より突き抜ける

「自分」の本質を理解してない
この時点ですでに負けてる

勝敗ではないが、敢えて言うなら負けている
しかし、人間はそれをマイノリティと括り
少数であるとし、良しとはしない

マジョリティで在る事多数で在る事に
どこまでもこだわる、いつだって「数」に
固執している、そしてそれが最も良い事だと
信じて疑わない

しかし、それは言い換えれば
一把一絡げ、まさに「大した事のない集団」
であり
どこにoriginally、「個性」「自分らしさ」が
在るのでしょう?

マイノリティで在る事の方が
当たり前に突き抜けている

しかし人間は理解できない
集団の中にいる事でしか自分を守れない

誰かがしていないと自信が持てない
誰かが認めてくれないなら価値がないと
思い込む
誰かに批判されたらダメなんだと自分で
自分を縛り決めつける

何が楽しいんだろう?それの何が
嬉しいんだろう?どんどんその集団の中の
「誰とも変わらない誰かの代わりになる
人間」に自らそこに向かう

だから生きる事は難しい
生き抜けない、簡単にやられてしまう
「誰かにとって代わられたら」
はい、終了!

そんな人生がお好みなんてわたしから
すれば信じられないかな

だからわたしはわたしのありのままで
生きる唯一無二のoriginally
左右されはしない

理解されないなら理解してもらう努力をすれ
ばいい
誰もしてないからやるんでしょ?
自信を持たないのなら自信に変わる事はない
自分を自分が信じないのに自信になるワケ
ないからね
批判?だから?何?
なら素直に受け止めればイイ
違うなら違う説明をする
そうだと思うならそうだねと認めればい
恐れる事などあるのか?

だって同じ人間だ、正解も答えもそれぞれで
どっちが「絶対」なんてない

なのに人間はそれを決めたがる
何でか?自分に自信がないからさ
いつだって「自分を信じている」なら
動じる事なんかない

ただ話を聞くだけだ
だから話を聞かない人間は成長しない
アドバイスも、意見も大事なのに

人の話は生きている知識だ!
聞かない事は損しかない

例えそれが批判であろうとな
聞いて見なければ解る事など何もない
誤解があるかも知れない

もしあったなら誤解を解けばいい
そうしたなら分かり合える

人間素直に人の話は聞くものだ
別に後から考えればイイ、それだけ

聞かずに判断する事それは自身をstop
させる事、そしてそっちの方が
よっぽど頑なで、孤独決め込んでるのに
それさえ解らない、フィルター越しに

声は届かないよ?誰かを何かを勝手に
思い決めつける事はnonsenseだ

なら聞けばイイ、「理由」はある
人間理由なくする事なんてない
あるなら、それは取るに足らない
どうでもいい事だ

皆さんは一緒=平等で一緒=一般的で
一緒=理解、全てがイコール思考だ

しかし、人間はイコールで繋がらない
だから「理解」できない事が発生する

しかし、皆んな違う人間である時点で
「一緒」になんかならない

全て理解、全て共有、全て同じ
これにこだわる事ほどおかしな事はない

なぜ?その必要性とは?何でしょう?
「全て」なんて無理だ!それは自分勝手
過ぎる、それは自分の理解の押し付けでしかない

ならどうやったら「理解」に繋がるか
どうやったら「共有」できるから
考えたらイイ、それはお互い様だよ?

事実自分の事を解ってもらうために
解ってもらおうとするでしょう?
伝えようとするでしょう?

それは人類共通だ、勝手に決めつけてるのは
だあれ?自分自身ではないのですか?

頑ななのはだあれ?突っぱねてるのはだあれ?
話を聞いてみようともしないのはだあれ?
「理解出来ない」と決めつけ「理解しようとも
思わない」のはだあれ?

自分自身でしょう?
それに気づいたならいかに自分を正当化し
他人対して責任転換していたかが解る

だって事実、そうだったでしょう?
だから素直に話を聞かなければ
何も解る事がないのだから

だからわたしはみんなありのままの自分
で自分らしく生きる事が、人生であると
感じるよ

理解はされるものじゃない
理解はしてもらえるように
伝えるものだ

それを諦めてはいけない
人間は同じだ、繋がっている
だからどんなに違っていようと
仲良くなる事も出来るし、理解も、共有だって
出来る

違う事と理解が出来ないはイコールには
ならないんだ

人生は楽しい方がいい
人生は自分らしく
笑って過ごすものだ
争いより繋がる事、それが人間に今
1番必要で重要であると

齋藤綾嘉は考える
皆さんはどうだろうか?

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