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木のいのち木のこころ(地)④

最初に棟梁がいったのは、
「道具を見せてみい」
これやった。それで鑿(のみ)を出したんや。七分やったかな。それをちょっと見て、棟梁はぽんと捨てたもんな。
 がっかりしたよ。三年待って、その間に鑿や鉋を使えるようにしておこうと思っていたんだから。(中略)
 しかし、俺はこういうことであんまりがっくりこないほうなんだ。「そうかな」と思っただけや。よけいなことを深刻に心配したり、考えたりせず、なるようになるだろう、言われたようにやってみようと思う性質(たち)なんだな。もともとが手や体で考えるほうなんだろう。頭でこうやろか、ああやろかとは考えないからな。まあ、得なほうや。職人の仕事というのは、そうやってものを覚えていくことが大事なんだ。西岡棟梁は後になって俺のことを、
「とにかく頭で覚えんと体や手に一生懸命記憶させようと人の倍も努力する人です」なんていってくれたらしいけど、自分じゃそんな気持ちもないんだ。そいう性分なんだな。

 法隆寺大工の口伝を守って、西岡の生活は貧しくて厳しいものだった。家族である息子たちは後を継ごうとは思わなかった。そこにやってきた小川である。西岡にも、西岡の家族にも大切にされたようだ。

西岡棟梁は俺の親父と同い年だ。親父は銀行員やったけど話すことが全然違うもんな。親父の話は幅が広いが、浅くて底が無いのよ。客のために話すことで、自分をつきつめることなんてことがないからな。ところが棟梁のいうことは奥が深いし、やってみせることはとんでもない技術やろ。そのうえ自分に欲得がないからな。いちいちうなずけるんだ。

でもそのころは、不思議なことに棟梁は決して俺のことを弟子だっていわないんだ。(中略)いまになって棟梁は、よその人に、
「初めから小川のことは、ただの大工やなくて棟梁にするつもりで教えましたな」って言っているけど、そのころはそんなこと知らんもんな。まあ、なんとなくふつうの弟子の扱いとは違うかなとは思ったけど、そのころ自分で棟梁になろうなんて思ってもみなかったよ。(中略)
棟梁は期待を持たせることや天狗になりそうなことは決していわなかったな。仕事を覚えるのに甘い言葉が何の役にも立たんとい思っていたんじゃないのかな。

 西岡棟梁を「法隆寺の鬼」と呼んだ人たちがいるそうだ。それほど怖い存在やったんだろうな。棟梁の育てられ方ひとつを見ても、法隆寺大工の棟梁となるべく、生まれたときから英才教育をされているんや。

 結局は西岡棟梁がその最後になったけど、一番難しい時代に遭遇したわけや。その時代、お寺にそれほど金はなかったろうし、お寺に仕えていた職人はみんな他の仕事に行ったが棟梁は頑としてほかのことはしなかった。おじいさんの教えのとおり民家の仕事はいっさいやらず、自分の家でさえ、ほかの大工に造ってもらった。

 学者のなかにはさまざまな意見を言うものがいて、西岡棟梁と幾つもの論争になった。

 しかも棟梁から見れば学者のいうことは間違っているか、一部のことしかいっておらんように見えたやろ。それでいて修復するのは自分や。自分は法隆寺の棟梁や。間違いを聞くわけにはいかん。命がけでも立ちふさがるわ。
 それと食い違いを正すためには学者に負けないほど調査をし、本も読んだ。仏教の経典にも目を通した。そのために家族、親族、友人、すべてを犠牲にした。仕事一筋や。
 こんな姿を人が見たら「鬼や」というだろうな。
 棟梁にしてみたら自分が引いたら、なし崩しに千三百年も守られてきたものが目の前で壊されていくように思えたやろからな。

 棟梁が鬼になってまで守ろうとしたものは何だったかって?もちろん法隆寺そのものということもあるだろうけど、木の命をいかに生かすかという技術と、木の心を知るための飛鳥の工人から引き継がれてきた知恵をいかに絶やさずに伝えるかということだったんやないかな。

 西岡棟梁から聞く木のいのち木のこころの話も素晴らしいが、一番近くにいた小川から聞く西岡棟梁の人となりの話がまた素晴らしいと思う。

 以前、ホリエモンが書いた本を読んだ時に、寿司職人に弟子入りして掃除から修業をするのは無駄だ、寿司の修業は○○時間で習得できるという文章を読んで、それはそれで、アリだな、と思ったのだが、この二冊の本を読んで、それとは全く別な徒弟制度の時間の流れを感じるのであった。 

 言葉では何も伝わらないんだ。言葉で物事が伝わらないっていうことがあるんだ。みんなは何でも言葉や文字で伝わると思っているが、そんなのは一部や。匂いや音。手の感触なんていうものが文字で伝わると思うか。
 人間には頭のほかに体があるんや。その体で覚えなくちゃならないのが大工さ。(中略)
 勘をどう養うかっていったら、自分の師匠から写し取るしかないんだ。
(中略)
 俺は師匠と一緒に飯を食って、いつも一緒にいて、同じ空気を吸って、何を感じ、それにどう反応して、どう考えているかを知らなくちゃならないと思っているんだ。これは自分の体験からもそう思う。俺は棟梁の家に住み込んで毎日一緒に暮らして、棟梁が触ったものに自分も触って、とにかく棟梁のやる通りにした。棟梁もほかのことは何にも考えんでいい、本も読むな、新聞もいらん、とにかく研げっていった。俺はそのとおりにした。

 西岡棟梁の教えが小川の体の中に流れていき、そして、宮大工の伝統が教わった小川の中で、新しい芽を吹き育っていく。(つづく)

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