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目に見えない世界①「虫の知らせ」

 目に見えない世界を意識したのはいつからだろう?
 
 きっとそれは子供たちの好きな怪談話から始まった。仲良しで集まると、そんな話が出る。印象に残っているのは、あだ名がでめちゃんという子の話。くりくりとした目の大きい子だった。

 野原を通るときに大人の女の人が通り道に居た。
 すいません、と言って傘をくぐって、通るときにふと上を見上げた。
 顔が無かったというのである。

 夏の真昼間、静かに怖いと思った。

 もう一つは、母の話。母の実家は西津軽郡車力村富萢にある。村の誰かの結婚式やお葬式に、母はよく駆け付けていた。父は肺結核で若くしてこの世を去り、母、姉、私の女だけの3人家族である。
 車力村には鉄道だけでは行けないし、車を持たない我が家であるから、母のそんな行事の時は、親戚が迎えに来てくれたり、親戚のおじさんおばさんに車に乗せてもらったりして、母だけが、泊りがけで行くことがあった。

 そんな故郷の旅から帰ってきて母が話していた話。

 不思議な体験をしたんだよ、と言う。母の村を訪ねたことがあるが、みな、母の旧姓と同じで、そこここに、親戚の家があった。その中の誰かが亡くなったのだと思うが、その家から家へと歩く途中の話。

 夜、1人で道を歩いていると、自分の後ろを白い着物を着た人が歩いていることに気が付いた。下駄の音がカランコロンとしている。こんな夜に白い着物を来て外を歩くなんて、おかしなこともあるものだと、ちょっと怖くなりながらも、気にしないようにして急ぎ足で歩いた。しかしその距離はつかず離れず、ずっと同じぐらいで、目的の家に着いた時にはホッとしたんだよ、と母は言った。
 きっと亡くなった〇〇だったのかなあ?

 母の話は続いた。

 おばあさんが亡くなった時、おばあさんが横たわる部屋に、ご飯をあげにいったんだ。したら、ご飯茶碗がすうっとひっぱられたの。ばさま、私のごと、好ぎだったびょん。

 ネズミの悪口を言ったの、そしたらさ、私の着物だけがやられていて、ネズミって賢いんだ。悪口とか言うもんでねよ。

 よく母は、カラスの鳴き声を聞くと、
「わいは、今日はカラス鳴ぎが悪い。不幸ごと、ねばいいけど」と言う。
 今もウォーキングする朝に、妙にカラスがつっかかってきたり、変な鳴き声の日があるけれど、必ず、母の言葉を思い出す。
 そして、そう話す母は、もう、この世にいないんだと残念に思う。
 去年の夏の8月22日、95歳で大往生だった。
 カラス鳴ぎを聞いては、母は、きっと故郷の人々や遠く離れた親戚、友人を心配していたに違いない。

 思い出すと、母は霊感のある人だったのではないかと思うが、私や姉はそんなことはなく、20歳ぐらいまで、そんな体験の無い人は、一生、幽霊には会わないもんなんだよ、と言うどこからきたのかよくわからない話を、ずっと信じることにして、安心していた。

 ちょうど、20歳ぐらいの時に、遠藤周作が「虫の知らせ」という記事を朝日新聞に書いていた。人が亡くなったとか、そういうことを、なんとなくピンときたりする不思議さについてコラムを書いていた。そのコラムは何回か続いたのだが、次の回は、シンクロニシティについての話だった。
 誰かのことを夢で見て思い出したら偶然、電車で会ったとか、そういう現象に「シンクロニシティ(共時性)」という学問で解説する言葉があるということに、とても驚いた記憶がある。
 そこでユング心理学とちら、と出会い、その後教師の仕事で悩んで、ノイローゼになりそうな心境で本屋で手に取ったのが河合隼雄の「こころの処方箋」という本だった。河合氏はユング心理学の大家で、その本にはこころという扱いづらい不思議なものについていろいろなことが書かれてあり、私は、その時の自分の置かれていた状況が、ものすごくよくわかった。
 分かったとしても、その時大変だったクラスの状況とか子供達との関係がすぐに解決するわけではないが、自分の置かれた状況を客観視することで、問題の糸口や、解決法、ココロの見方、扱い方というものを知り、ある意味安心したのである。
 今、この文章を書きながら、全然、別なことを書こうとしていたのに、ココロという目に見えない世界に突入したことに、自分で、ちょっと驚いている。(1,500字を越えたので、次につづく)