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《私の死はまだ見たことがない》

いま、森美術館で、
『塩田千春展:魂がふるえる』
が開催されている。

私の好きな美術家、会田誠がTwitterで紹介していたので
開幕翌日に見に行った。

(赤い糸で空間を覆った、印象的な写真のインスタレーションは
《不確かな旅》)

展示の中で興味をひかれた作品が
過去のインスタレーション、

《私の死はまだ見たことがない》

だった。

過去のインスタレーションを写真とキャプションで紹介する
小さな展示だったが、
キャプションにあるマルセル・デュシャンの言葉、

「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」

という言葉とともに、深く響くものを感じた。



死を語る時、
また誰かが死について語るのを聞く時に感じていた違和感が
すっきりと、簡潔に表現されていた。

私や誰かがいくら死について語ろうとも、
医療者としていくら人の死に多く目撃し立ち会おうとも、

私はまだ死んだことがない。
どんなに身近な家族の死でも、自分の死ではない。

このことに気づいていることは重要だ。

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死に向き合う当事者にとって、死は、「私の死」。

家族など身近な近親者にとっては、「あなたの死」。

これをフランスの哲学者、ジャンケレヴィッチは
「一人称の死」「二人称の死」
そして他人の死である「三人称の死」として3つに分類した。

死は、語ったり、思い巡らすことはできても
最終的に体験することは死にゆく当事者にしかできない。

逆に言えば、「二人称の死」を経験する家族の気持ちを
死にゆく人が完全にわかることも難しい、ということでもある。

「遺される家族のためを思って」という配慮が、
必ずしも家族の望みを叶えるものとはならない可能性もあるということだ。

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この事実は、二人称の死を体験する家族が
「当事者ではない」と意味づけるものではない。

大事な人を失うという形で死の暴力性を体験し、
その後の人生をも左右される可能性を持った当事者であることは確かだ。

どちらも喪失の苦しみに向き合い、
サポートやケアを必要とするという意味では
等しく「当事者性」を持っているが、
その体験の質は大きく異なっている。

その「ちがい」が確かに両者のあいだに横たわっていながら、
どうしようもない「わかりあえなさ」とただ共にあり続けるということが
相手を尊重する、ということだと私は思う。

これが実はなかなか難しい。

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家族や支援者も感情的になるので、
「私の思い」
を当事者に押しつけないでいることは、
意外と難しいものだ。

ホスピスで働いた時、
頻繁にスタッフ間で投げかけあった問いは

「それは誰の思い?」
だった。

何かしてあげたいケアがある時、

それは本当に当事者がしてほしいことなのか?

支援者である「私」が
やってあげることで満足したいことなのか?

この違いはとても大きく、
望まないことを押しつけて追い詰める場合さえある。

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考えてみれば、死の現場だけではない。

誰かに何かしてあげたくなった時、
自己満足で終わらないために、
一度立ちどまって考えたいと思う。

「それは誰の思い?」
と。




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