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里芋まん什の掟

江戸時代、現代のような画一的な教育制度はある訳がなく、それぞれの地方や階層によって違っていました。子供達の自主性を重んじるような集まりで自主的な規律を体験的に学んでいた人々。会津もその一つ。

里芋を柔らかく料理しながら、誠心誠意尽くした筈の相手に敵認定されてしまった悲劇の人々とトップを妄想した記録。


材料

里芋    10から11個
片栗粉   大匙2
ホウレン草 2株
人参    1/4
出汁つゆ  カップ1(二倍濃縮)
塩     適量と小匙1
醤油    小匙1

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

以上が什の掟。ご覧の通り、十ではなく七つ。
会津藩では六歳から九歳までの同じ町に住む子供達で集まり、互いにこれらの掟を守っているか話し合っていた。子供の内から厳しく互いを律する文化。そうした集まりを什と呼んでいました。
こうした規律を叩きこまれた筋金入りの藩士達1500人を率いて、幕末の京都に乗り込んできたのが第九代藩主の松平容保。


里芋を圧力鍋で煮る。

文久二年(1862)京都守護職に就任。その任務を遂行するため。
当時の京都は過激な尊王攘夷派が天誅と称して、公家や幕府の要人を襲っていて政情不安。天皇は玉と呼ばれ、それを囲い込んでしまえば、こちらのものだと考える尊王攘夷派などもいた。
誰かがそれを取り締まる役割を担わねばならない。最初は固辞した容保でしたが、藩祖の遺訓を持ち出され、覚悟を決めて拝命。
会津藩祖、保科正之は三代将軍家光の異母弟で将軍家のために尽くすべしとの言葉を遺していました。
容保は直接の子孫ではなく、高須藩主の松平家から養子入りした人物でしたが、その遺訓を守り、朝廷と幕府の威光を守るために働く決意。


ホウレン草を塩茹で。

黒谷の金戒光明寺を本陣とした会津の精兵達は都の守護のために働くことに。容保は翌文久三年に参内して、孝明天皇に拝謁。御衣を賜る。武家が帝から御衣を賜るのは異例なこと。それだけ頼りにされたということ。
賜った御衣を陣羽織に仕立てた容保は公武合体のために大いに働く。
壬生に残留していた将軍警護の浪士隊を新選組として雇い入れたのもこの頃。
天皇直筆の文書である御宸翰も賜り、大いに面目を施す。


茹で上がった里芋を潰し、片栗粉と塩を小匙1混ぜる。

孝明天皇の妹、和宮と将軍家茂の婚儀も整い、八月十八日の政変で過激な尊王攘夷の公卿も朝廷から一掃されて、公武合体により日本は一枚岩になるかと思われていました。この頃が容保にとってもっともよかった時代か。
配下の新選組による池田屋事件や蛤御門の変などまだまだ血生臭い時期は続く。


一口大に丸めた里芋饅頭を両面、焼き目が付くまで焼く。

しかし、将軍家茂と孝明天皇というもっとも容保を頼みとしていた人物達が相次いで亡くなると、途端に運命が陰り出す。
跡を継いだ最後の将軍、徳川慶喜は大政奉還。鳥羽伏見の戦いの後、容保達と共に江戸に逃げ帰り、ひたすら謹慎。
東に向かって来る官軍、特に中核となった長州は京都守護職だった会津に恨み骨髄。何しろ過激な尊攘派の巣窟だったので仲間を何人も会津藩や新選組に殺されたり、捕縛されたりですから。会津を自分達が担いだ玉、明治天皇の敵、朝敵に認定。コペルニクス的な180°転回と言うべきか。
薩長に不満を持ち、会津に同情的な東北諸藩は列藩同盟を組み、官軍に対抗。会津は戦場に。


細切り人参を出汁つゆで煮て柔らかくする。

それこそ什の掟を学んでいた最中のような少年や婦女子に至るまで会津藩士達は一丸となって籠城戦を戦い、会津での戦いは一ヶ月に及んだ。
婦女子の自刃は239名。降伏後の容保は江戸へ護送。
この辺りまでは会津の悲劇として多くの人々が知ること。


水気を切り、適当な長さに切ったほうれん草と里芋饅頭を戻し入れ、醤油を追加。水溶き片栗粉でとろみ。

容保の子、容大を藩主として斗南藩が立藩。会津藩すべてが最果ての地へ転封。下北半島の北部という不毛の地で、藩士達は苦難の道。容保自身も田名部に移住。実は容大は明治二年に誕生しているのでまだ一歳。それでも知藩事として祭り上げられていた。


里芋まん什の掟

茹でて柔らかくした里芋を更に潰しているので、歯が弱い人でも食べられる。介護食にもいいかもしれない。表面を焼いているので少しの歯応えも楽しめます。
人参のβカロチン、ホウレン草の鉄分と栄養も十分。醤油味なとろみ餡がよく絡む。

ここから少し意地の悪いことを書くことになるかも。
松平容保、藩庁が置かれた田名部に一ヶ月程いて東京に移住。
生活に困窮していると、旧臣の手代木勝任が俸給の半ばを送金。
明治十三年(1880)、日光東照宮の宮司に就任。
何のかんの言ってもお殿様は周囲に担がれて、食うに困らない。
子孫は秩父宮という皇族に嫁ぎ、現在の徳川宗家当主は容保の男系子孫。

江戸時代の間に武士は我が身に代えても主君を守らねばならないという武士道や倫理観が根付いていたのでしょう。
戦国の世だったら降伏開城となると、城主が切腹、城兵は皆、助命となる所ですが、逆転してますね。婦女子に至るまで城兵自刃、城主は命長らえる。
皮肉を言っているのではなく、時代によって倫理観や価値観は変わるということ。

一 人をいたわります。
二 ありがとう、ごめんなさいを言います。
三 我慢をします。
四 卑怯なふるまいをしません。
五 会津を誇り、年上を敬います。
六 夢に向かってがんばります。

やってはならぬ。やらねばならぬ。
ならぬことはならぬものです。

以上は什の掟を現代風にアレンジしたあいづっこ宣言。会津若松市が制定した共通の指針。
什の掟と比べると、やはりこれにも価値観や倫理観の変化があります。
そんなことを妄想しながら、里芋まん什の掟をご馳走様でした。

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