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真田昌幸のこ鍋

そろそろ鍋の季節も終わりかなと思いつつ、山の幸であるキノコをたっぷりと盛り込んだ鍋を作りながら、戦国のトリックスターを妄想した記録。


材料

昆布    5センチ位 (出汁取り用)
大蒜    1片
生姜    1欠け
豆板醤   小匙2
酒     大匙1
胡麻油   適量
醤油    大匙2
なめ茸   1パック
エノキダケ 1パック
シメジ   1パック
牛蒡    半分
ほうれん草 2株

天文十六年(1547)生誕と言われる真田昌幸は信濃の地侍、真田幸隆の三男。
三男ということから家を継ぐ見込みはなしということから武田家の本拠、甲斐へ人質にやられていました。真田家は幸隆の代から武田家に仕えた新参者。甲斐出身でもないということから信頼を得るために人質が必要。
しかし昌幸は優秀だったようで、甲斐で様々な教育を受けて、武田信玄の近習として仕えるようになり、信玄の母の実家、大井家の親戚、武藤家の名跡を継いで武藤喜兵衛と名乗るように。初陣は6回に及んだ川中島の戦いでもっとも激戦となった第四次合戦、八幡原の戦い。


短く切った牛蒡を水に晒す。変色防止のため。

やがて信玄に「我が眼」と言われるまでに信頼を得た武藤喜兵衛。
信玄の死後は、後継者となった勝頼に引き続いて仕える。
大きな転機となったのが長篠の合戦。
徳川織田連合軍と設楽原で戦った武田家は大打撃を蒙る。
信玄の代から仕えていた有能な家臣も多くが討ち死に。その中には昌幸の兄達も含まれていました。
後継者が絶えた真田家を継ぐために、昌幸は実家に戻る。武藤家の所領は他の親戚衆が継ぐことになったようです。


大蒜微塵切り。生姜千切り。

天正三年(1575)長篠での敗戦以降、武田家は斜陽の道。
天正十年(1582)三月、ついに満を持して侵攻してきた織田、徳川、更に尻馬に乗った北条によって武田家は風前の灯。この時、昌幸は領地にある岩櫃城に新たに御殿を作り、主の勝頼を迎え入れる算段。
御殿跡(潜竜院)の動画。↓

しかし、ここに来ること敵わず、武田勝頼は天目山で討ち取られて、武田家滅亡。ここから真田昌幸は真価を発揮し始める。


胡麻油を引いた土鍋で生姜と大蒜を香が立つまで炒める。

主がいなくなったので、今度は新たな主として上杉や北条といった周辺の大勢力のどこに付くか?
昌幸が従属先として選んだのは織田家。
主を滅ぼした信長に降るという決断。
結果として、これが正解。真田家は武田の譜代でもなく、それでも最後まで勝頼を見捨てなかったということが信長の心証をよくしたのか。従属を認められる。
それまで敵だった相手に降るのはリスクを伴う。信長に降ったものの、土壇場で主君を裏切ったとして小山田信茂は処刑という憂き目に遭っています。あやうい方に賭けて、見事に真田家生き残り。


牛蒡、ほぐしたシメジ、軸と先を切り離したエノキ、なめ茸を投入。昆布出汁の汁で煮る。

一寸先は闇。それは現代でも言えるけれど、戦国時代は更にその度合いは高い。僅か三か月後に本能寺の変。新たな主、織田信長急死。
まだ織田家の支配が確立していなかった旧武田領の甲斐や信濃は周辺の大勢力、北条や徳川、上杉が取り合いを始める。
この時に昌幸は武田旧臣を取り込み勢力拡大を図る。大名として自立する下地を作るために味方や家臣を増やしたということ。
自家の勢力拡大と共に上杉、北条、徳川と従属先を度々変えて、巧みに乱世を泳ぐ。その姿から「表裏比興の者」と呼ばれるように。
卑怯ではありません。比興とは油断ならないとか食えない奴という意味合いかと思われます。
英語に訳すとトリックスターと呼ぶべきかと個人的には思います。


沸騰したらほうれん草と醤油、豆板醤投入。蓋をして煮る。

徳川に属していた時、徳川が北条と和睦。その条件として真田領の沼田を北条家に引き渡せと家康から望まれる。
いくら徳川方とはいえ、沼田は昌幸が切り取った領土。それをみすみす渡せというのは納得いかず、ついに徳川と手切れ。生き残るために従属しても何でも言うことを聞く訳にはいかない。
それが原因で起こったのが第一次上田合戦。
昌幸は2000の兵力で上田城に籠城。徳川軍7000を相手に奮戦。
上田城は徳川の命により、築かれた城。徳川家はその縄張り等も知っていたのか、二の丸まで容易に占領。しかし、その時に伏兵に襲われて撤退。罠だった?
徳川軍が逃げた先で、神川に設けてあった堰を切り、鉄砲水を浴びせるという戦略。徳川方はこの合戦で死者1300人の損害。


煮えて来たら、火を弱める。

上田城を守り切り、徳川を追い返したものの、徳川と北条は同盟を強化。これと対抗するために昌幸は更なる手を打つ。家康の最大のライバル、秀吉に臣従。この時、上杉家に人質に出していた次男の信繁(幸村)を密かに呼び戻して秀吉の元に差し出す。
この後、家康が秀吉に臣従。これにて同格の大名、とはなりませんでした。
秀吉の命により、真田家は徳川の寄騎に。一段下ということに近い。
更に北条家懐柔のために持ち出されたのがまたもや沼田。
沼田という場所は東北にも関東にも抜けられる交通の要衝なので、どの勢力も戦略上、欲しがっていたということ。


とろみがいい感じ。

ここでまた沼田引き渡しを拒否して秀吉まで怒らせる訳にはいかない。涙を呑んで沼田引き渡しと思いきや、転んでも只では起きないのが真田昌幸。
沼田領に含まれる名胡桃城の周辺は真田家発祥の地であり、先祖の墳墓があるので、そこだけは引き渡せないと主張。認められる。
恐らく嘘。真田家は信濃の豪族。沼田は上野です。
どうして名胡桃かというと、名胡桃城は高台にあり、沼田城下を見下ろせる。沼田で不穏な動きがあればすぐにわかる。
秀吉もそれを承知の上で名胡桃の領有を認めたのではないか。北条の監視役を真田家に期待したか。名胡桃城の動画。↓

結果として、名胡桃を残したのは秀吉にとっても吉と出ました。
この裁定に不満を抱いた北条家は名胡桃城を攻める。これが秀吉が諸国の大名に出した「惣無事令」と言う停戦命令に違反したとして、この名胡桃侵攻を口実に小田原征伐が開始。


真田昌幸のこ鍋

きのこは低カロリーなのにビタミン、カリウム豊富。タンパク質も含まれる。カリウムは人体にとってあまりよろしくないナトリウムを排出する手助けをしてくれます。
ほうれん草で鉄分補給。豆板醤で微かな辛み、大蒜と生姜の風味でどことなく中華風にも感じる味わい。牛蒡の食物繊維も忘れずに。

北条家の滅亡後、晴れて沼田は真田家の領有する所に。
豊臣政権下で真田家も着々と大名としての地歩を固めていくことに。
真田昌幸の人生、この後も第二次上田城合戦や関ケ原等々、まだ妄想したいことは幾らでもあるのですが、残念ながら料理が完成してしまったので、続きはまたいつか。
生き残り術に長けた真田昌幸のようなトリックスター、今の日本にも現れて、日本生き残りに尽力して欲しいと願いつつ、真田昌幸のこ鍋をご馳走様でした。

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