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吉川元春雨サラダ

戦国時代、中国地方のほぼ全域に渡る領国を形成した毛利元就には、正室の間に三男一女。家督を継いだのは長男の隆元。次男と三男はそれぞれ養子に入り、他家を継ぎましたが、あくまでも毛利家を拡大させる戦略。
次男で母親の実家を継いだ吉川元春を妄想しながら料理した記録。


材料

春雨    1袋
白菜    1/4
ツナ缶   1
人参    1/2
キクラゲ  好きなだけ
白摺り胡麻 たっぷり
醤油    大匙2
酢     大匙1
胡麻油   小匙1
蜂蜜    小匙1

享禄三年(1530)に毛利元就の次男として誕生した元春。
尼子晴久が吉田郡山城に攻めてきた籠城戦にて、元服前だったが父の反対を押し切って初陣。
その時に大内家の援軍を率いてきた陶隆房(後の陶晴賢)と義兄弟の契りを結ぶ。
家の危機に、元服前だからといって座していることが出来ない、子供の頃から武士らしい魂を持っていたように感じます。


春雨を茹でる。

元春、結婚について興味深い逸話。
天文十六年(1547)に国人領主、熊谷信直の娘と結婚するのですが、その娘は醜いことで有名。
しかし元春は
「醜い娘を嫁に貰ってくれたとなると、父の信直は感謝して我が毛利家のために働いてくれるだろう」と言って結婚。
ちょっと待て、いい話のように『陰徳太平記』という毛利家の資料にありますが、これって熊谷信直からすれば、馬鹿にするなと言いたくなる話じゃないの。
嫁の貰い手がない娘を貰ってやる代わりに働けと言っているようなものであり、私が父親の立場だったら、破談だ。


キクラゲを細切り。これは水で戻した乾物ですが、生キクラゲでもよい。

と思っていたら、この結婚には異説がありました。
元々、結婚の約束をしていたものの、婚約中に娘は疱瘡に罹ってしまい、幸い回復したものの、顔に醜い痘痕が出来たということ。それを気に病んで、熊谷家側から婚約解消を申し出たそうですが、
「顔の良し悪しで結婚を決めたのではない。武士が約束を違えることは出来ない」と元春は返事して、約束通りに熊谷信直の娘と結婚。
これに深く感謝した熊谷信直は毛利家のために働くことに。
夫婦仲も良好で、元春は側室も持たず、妻との間には四男一女と子宝にも恵まれたという話。
こちらの話ならば、納得できる。


細切りにした人参と白菜を茹でる。

毛利元就の妻は吉川家の出身。元春が結婚した頃には既に故人。
当時、吉川家の当主は興経。元春とは従兄弟。
吉川家の内紛に介入する形で、元春は興経の養子に。
興経には実子がいたので、実子の成長後はそちらに家督を継がせるのが養子縁組の条件。
しかし、謀略の鬼と呼ばれた毛利元就。そんな約束は簡単に反故に。
天文十九年(1550)元就は興経を強制的に隠居させ、熊谷信直達に命じて、興経とその子を殺害。完全に吉川家を乗っ取り。
妻の実家にこの仕打ち。


調味料とツナを混ぜる。

毛利家が一躍、中国地方の雄となる契機となったのが厳島の合戦。
主君の大内義隆を殺害し、傀儡の主を立てて乗っ取った陶晴賢を厳島におびき寄せて、少ない兵力での奇襲で討ち取った戦。
この戦にも吉川元春は参戦。義兄弟となった陶晴賢と戦うことに。
勝利した毛利家は陶の残党や大内家と戦い、膨張していく。元春もそれに大きく貢献。

キクラゲを混ぜる。

大内家が滅んだ後、もう一つの中国地方の雄であった尼子家とも戦。
ここでも元春は活躍。更に尼子滅亡後、再興を目指して何度も毛利家に挑んできた山中鹿之助との戦いは主に吉川家が担当。山陰に近い方に所領があったからですね。


茹で上がった春雨を適当な大きさに切って投入。

その山中鹿之助を後援して、中国地方に楔を打ち込もうとしていたのが織田信長であり、現場指揮官が羽柴秀吉。
鹿之助は尼子一族で出家していた人物を説き伏せて当主として擁立、尼子勝久と名乗らせて、尼子再興の旗印としていました。
叩いても叩いても出てくる尼子残党の鹿之助、それを支援している秀吉や信長に、元春は苦々しい思いもあったのだろうかと妄想します。


茹でた白菜と人参も投入。

ようやく尼子残党が片付いたと思ったら、今度は秀吉の本隊がやって来て、吉川一族が守る鳥取城や三木城が落とされていく。
それも正面からぶつかり合う戦闘ではなく、兵糧攻め。
鳥取の干し殺し、三木の渇え殺しと言われますが、一説には食べ物がなくなった城内では死人の肉まで食べたとか。
武士らしい戦いではなくそんな方法を用いる秀吉に、元春は苛立ちや怒りを感じていたのではないかと妄想。


ツナと摺り胡麻を投入。しっかりと混ぜ合わせる。

そうした秀吉の武士らしからぬ戦法の最たるものが備中高松城の水攻め。
城の周囲に堤防を築き、巨大な溜池を作り、城を孤立させる。
城内の者達は兵糧の補給も出来ずに弱っていくばかり。これはもう手の施しようもないとして、ついに毛利家は秀吉方と和睦。
和睦条件として城主の清水宗治が切腹すると、それを見届けた秀吉はさっさと上方へと引き上げていく。
実は本能寺の変で主君、信長が死んだので、その弔い合戦に向かうことに。
それを知った元春は怒り心頭。追撃すべしと強く主張。騙されたと思ったのでしょう。


吉川元春雨サラダ

白菜の淡白な味、人参の甘さを甘酢やツナの塩気が引き立たせる。春雨とキクラゲという食感が近い素材がいい歯ごたえ。胡麻の風味も素晴らしい。
サラダと言いつつもご飯のおかずにも十分。
ベータカロチンやビタミンCもたっぷりな栄養食。勿論、春雨なので低カロリー。

しかし、秀吉は騙したというより言わなかったというだけで、いずれ秀吉は信長の弔い合戦に勝つだろうから、ここは恩を売っておこうという弟、小早川隆景の主張で追撃はされず。

毛利家が秀吉に臣従すると、元春は隠居。武士らしくないというより、元々秀吉は武士ではないので当たり前ですが、そんな人物に協力することを潔しとしなかったのでしょう。
四国や九州への出兵を求められても、家督を譲った元長に行かせました。
それでも秀吉から強い要望があり、九州への出兵に渋々参陣。
この頃、既に病気だったらしく、出征先の小倉で死去。57歳でした。

約束は違えず、あくまでも力でぶつかり合う戦をよしとして、武士らしくありたいと考えていたのではないかと吉川元春を妄想しつつ、吉川元春雨サラダをご馳走様でした。


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