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うたがわきしみうわごとだものⅡ

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感じたことあれこれ。日常。コラム。創作日誌。エッセー的な。作品にはならないうわごと系の。二個め。文芸を志す方にオヌヌメ。
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#コラム

これはもう不思議なくらい必ずそうなり 一種のジンクスのようなのだが ふいに現れ熱烈に僕のあらゆる作品を高評価し 貪るようにフォローしまくり 隙あらばDMでも応援アピールしてくる 火の呼吸のファンはほんの短い期間燃え盛った後 全く音沙汰がなくなり飛ぶ 病的に熱しやすく冷め易い見本

【エッセー】待つ力

現代人から“待つ力”が失われている 加速しかしてこなかった時代と ゼロ距離ネットワークに 感染し過ぎてしまったのだ 人類が それに急いで適応せねばならなかったとはいえ 語弊を恐れずに言えば コロナよりひどいものに みな罹患してしまっている なればこそ 「今ひとたびのスローライフ」などという 手垢言葉では言い尽くせぬ “待つこと” “待てること”の 尋常ではない心のスケールを 取り戻さねばならないのではなかろうか 海外のとある地域では バスや電車が二、三時間遅れても当た

『寂しさの正体』

“寂しさ”かあ。 まあ、人それぞれ自分だけの寂しさレンズを持ってるだろうし、 レンズによっちゃ、なんでもかんでも寂しく見えちまうだろうが……w そうさな、乱暴にくくっちまっていいなら、 寂しさには二種類あるんじゃねえかな。 1つは、タチの悪い友人みたいなヤツで、 普段なにげなく過ごしてるときにはとんと顔を見せない。 そのくせ――たとえば学校帰りだ。 公園で友達と暗くなるまで遊んでいたとする。 「○○ちゃん、もうお夕飯だから帰るわよー」 「はーい! 今日のごはんは何かなあ?

『ガンジス川で3歳の頃考えていたこと』

インドの聖地バラナシを流れるガンジス川。 観る人が観たら、業を洗い、人の生死まで司る神秘の川。 しかしまた観る人が観れば糞と小便と死体が流れてくる病原菌の塊みたいな川。 日本人で入る人は少ないだろうが、インド人なら死ぬまでに1度はここで沐浴したいと願ってやまない聖なる川と言われ、実際、日々大勢の人々が沐浴に訪れている。 観るレンズが違うだけで世界の眺め方は180度変わり、それによって世界の受け取り方が変わり、生きてる日々の実感もそれぞれに異なってくるのは至極当然の道理であ

「資格」って言葉が好きじゃねんだがよ。だって、役者にゃあ資格なんざねえからな。才能があるかないか、そこは実にシンプルだ。じゃあ、どんな言葉が好きなんだい?って問われたら「機知」あるいは「機転」かな。こいつは役者や演出の現場でも役に立つが、人生の大半でも役に立つ。 特に醸し部では←

『noteで良かったか? ~note存在論的実存主義で嘔吐するサルトルも斯く語りきサモハン・キンポー主演黒船来航ちょんまげピストル滞在攻防記:「誰が寿司はマグロからと決めたのか?」ソシュール言語学概論第四章より抜粋の極みガイアの朝焼けアーネスト・サトウは家政婦なみに垣間見た情熱ホルモン大陸間弾道少女けだし夕刊マダムはレトロスペクティブより~』

noteで良かったことを語る前に、あの吉田さんのコメントスレ―― 果たして本当にnoteは「良かった」のかどうか 「良かった」と断定するからには、光と影が切り離せぬように 「悪かった」という評価が当然背中合わせに存在しなければならない。 だが、noteというこの曖昧模糊とした世界を 実際問題、良いか悪いかの狭量な二元論で片づけてしまっていいのか、 まず僕らはそこに立ち返って考えてみる必要があるのではないか。 なぜかなら、かつての最先端物理学の検証結果を遡るまでもなく、

『無駄じゃない無駄』

『雑感抄』でも書いたけど、無駄に見えることってのも案外大事で、逆にいえば無駄なことなんてないかもしれなくて。 前の『雑感抄』は消しちゃったので、コメント残ってないですが、そこにあれを書いた背景というかノウガキをたれていたのを少しだけ、メモとして残しておきましょうかね。 御存じない方がほとんどだと思うんですが、僕は舞台や声優やってたりしてて、まあ、演劇の道にいたんですけど、そこで教わってきたこととして、というか、僕はそういう世界だと思ったから飛び込んだわけで、声優とか芝居に

『今を生きるための現代詩のススメ』

や、なにがなにって、江藤さんが僕がやり無理薦めた渡邉十絲子著『今を生きるための現代詩』のインプット完了したようです! 偉いなあ。あのう現代詩ってほんとよくわからないですよ。書いてる僕がいうのもなんですが(笑)ぼくもなんだかんだいって、いい歳の大人になってからなんですよ、よくわからない詩の世界に踏み入ったのは(笑) なんだろ、わかりやすいものばかり書いたり食べたりしてると、脳がなんか求め始めちゃうのかな(笑)はごたえを(^_^;) でも、最初はとっつきにくくて何度も挫折し

うたがわきしみのうわごとだもの過去選 創作日誌『読者って。創作って』

きしみは、昨日TSUTAYAに久々にいったですよ。 行ってしまうと本屋大好きっこなだけに、 現実を逸脱するほど散財するので 避けてきたのですが、調べたい雑誌があって……。 まあ、それは結局たいした雑誌ではなかったから アマゾンでポチせず、自分の目で確かめてよかった。 ジャケット群というか新作たちの表紙を眺めて、 めぼしい漫画も新たにチェックだけして、 財布のひもは緩めなかった。 って、そんなきしみの日常話はどうでもよくて、 この日の本当の収穫は 10代後半の女の子たちの

『ひなたのしずくという音楽ユニット』

一年前の金曜の夜、お茶の水で「ひなたのしずく」――(当時は「ほたるのしずく」だったが名称変更の経緯は大人の事情で省略する)――が出演するライブへ行った。 歌ってる方って本当にたくさんいらっしゃって、まあ、アイドルやらジャズやら全部含めちゃうと、一億総活躍じゃないけど、かなりわんさといるわけですよね。 で、いっちゃなんだけど、私は客なんで、同業者でもないんで、言えちゃうんだけど(笑)「歌」が歌えてる「本物」はかなり少ない印象ですね。最近見て回ったところだけでも、正直見てて痛

『君は心の露出狂か』

ちびまゆこ←(最近おしてるやつ)さんがいいことをおっしゃっててね。 あたしらは、どこかその、もう、"心の露出狂"なんじゃまいかって。 あたしは間違いなく、その大家で心の露出卿だけどさ。 むき出しの自分を出すか出さないかってのは人によるよね。 人によっては、自分を出さない表現者もいるものね。 自分から遠いのを描く人。 遠いから描ける、みたいな人。 でもそれでも、自分が出ちゃうのが表現だと思うけど。

『尻~その真白き双丘の狭間で~』

私は短気な父が嫌いであったし、許せもしなかった。 とうに亡くなった今でさえそうだ。 あるとき、なぜ母親と結婚したのか、 家族でその馴初めを訊いたことがあった。 「尻が一番でかかった」 父は確かにそう言った。 母の尻を見て一緒になったと。 それを聞いた瞬間、ある種の生理的な嫌悪を感じるとともに どうしようもなくその血が流れていることを受け止めざるを得ず 行くことも戻ることもできないような 尻の持っていきようのない狭間で 私はこれからも尻を愛していくしかないのだと ひとり

『文縁の友よ……ひとごとじゃないよね(笑)』

ネットだと本当に、 長文読んでもらうの大変だね。 本ならどれくらいのボリュームか 見当つけながら安心して読めるけど ネットだと、だらだらどこまで 続くのかわからないっていう ストレスかデフォルトでありつつ、 読まなきゃないわけで。 文章が研ぎ澄まされてうまくて、 物語にサスペンスもあって、 読みやすく改行や成型がなされてたりして はじめて読む気になるっていう。 じゃなきゃ、ネームバリューがあるとか。 やっぱネットだと、 140文字くらいで表現できる 詩とか超短編あたり

『すきっぱらにハイボールはやめよう、なんて話をきしみがするわけないだろう。や、するだろ、普通に(笑)』

どんなにお腹がすいていても、すきっぱらにはビールです。それしかない。選択の余地は。 って、そんな話はどうでのいいんです。ホグワーツ。空きっ腹にハイボール入れたらしんどいのなんのって。どうする?どうもしないか(笑) あのう、どんな表現媒体でも、“人間を描く”必要があるものとそうでないものがあってね。舞台でも映画でも小説でも漫画でも。ギャグなのか、そうでないのか、喜劇なのか、そうでないか、いろいろジャンルはある(みなもと太郎の『風雲児たち』みたいにギャグなのに人間描いてるも