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日本人「おもてなし」の真意

日本は、おもてなしの精神がある、とか
よく言われます。

私もあると思います。
(今では、かつてはあった、という方が近い気がしますが。)

またこれは、日本人特有の感性であると。

では、そもそも「おもてなし」の精神とは何かと、

おもてなしは、ネットの辞典では、
英語でホスピタリティ(hospitality)とかに訳されます。
反対に、hospitalityを日本語訳しても、手厚いもてなし、と翻訳されます。

しかし、実は、
「おもてなし」と「ホスピタリティ」には
大きな違いがあるんです。

そもそもホスピタリティとは、
ホテル(hotel)や病院(hospital)の元となった言葉で、その語源は、
他国から来訪した旅人や病人を教会等の施設が保護したことから、客人を保護する、異人歓待がベースとなっています。
(参照:日本ホスピタリティ推進協会教本)

とあるように、異人歓待であり、保護、がベースなのです。
つまり、一種の施しであり、慈悲の心なのです。
つまり、キリスト思想です。

では、「おもてなし」はと言うと、
かつては誰を、何をもてなしたか、

それは神様だったんですね。

神様をおもてなすので、
表面的な、取り繕ったことは見透かされます。
裏まで、細部まで、またその精神まで見られる。
(表裏がない、というのがおもてなしの語源だとする説もある)

だから、普通、人が見えないようなところまで凝るんです。
徹底的に質を上げるんです。
これが日本人の気質の原点です。

今できる、今あるリソースを駆使して、
一番いいもの、良質なモノ、コト、キモチを相手に与える。
細部まで徹底して。

また、次回までにより良いものを目指す。
改善(kaizen)の意識も神様へのおもてなしの意識から発達したのかもしれません。

また、日本は真美にこだわります。
ちゃちい、偽物を嫌います。

偽物や手抜きは神様に見抜かれます。
美しくないものは神様には見せられません。
それは物や動作という目に見えない部分以外の、
精神的な部分や心持ち、目的など、
物や動作であっても、その過程まで。

当初は、本心から神を畏れ敬う想いから形成された精神が形となり、文化となり、後世の

そういう想像力や発想力が自分たちを更に、人間的に成長させたり、進化させたりすることを、古来より知っており、文化として根付かせてきたのが日本人なのではないかと、つくづく感じさせます。

なので、外国否定はするつもりはありませんが、ある国々は、平気で偽物や劣悪な物やサービスを扱います。
これは、我々日本人のような精神が根付いていないからだとも言えます。
感性、感覚が異なるのです。

現代は、日本でも欧米文化が浸透しています。
特に私が懸念するのは、食品に対する文化、意識です。
我々の健康、脳力に直結する問題です。
私は、未来を担うこども達には、本当に安全で安心で美味しいものを食べて、健やかに育って欲しいと願っております。
幼稚園、保育園でできることは、今のところ、良質な給食の提供です。
できることから始めます。



多くの場合は、おもてなしとホスピタリティを、このように解釈しているような気がします。
また、他にも意見がありますが、残念ながら多くの場合、恐らく、インターネット上の情報を鵜呑みにしたり、茶道の知識の聞きかじりや、英語のhospitalityの意味をミックスしてみたり、欧米文化に立脚して、観光目線、接客業目線、対人サービスのような目線でホスピタリティとおもてなしを比較しているような節が見られます。
それでは、本来のおもてなしの精神の理解は不可能かと思います。