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【スポーツ批評 第0回 序章】

 M・マクルーハンは自身の著書『メディア論』で「メディア」を人間の感覚の拡張であると定義している。『メディア論』で語られている様々な「メディア」は、日本人が日常的に口にする「メディア」とは少し異なる。前者の「メディア」には皮膚の拡張として“衣服”などが含まれるが、後者の「メディア」にそれは含まれない。後者はいわゆる「マス・メディア」のことを指すわけである。ここで、本考察において言及される「メディア」が、スポーツに対する「情報」(=「批評」)を発信する全ての媒体であることを明記しておく。つまり、試合の結果を伝えたり、スポーツ中継を放送したりする新聞やテレビだけではなく、選手やチームに対して様々な「批評」を浴びせるサポーターやファンも「情報」を発信する「メディア」となる。

 私たちはメディアを通して天気予報や事件の概要、試合の結果、画像、音声、映像など様々な「情報」を得ている。現地にいない日本人はアメリカ大統領選挙についての「情報」をテレビや新聞などのメディアを通して得るわけだが、全ての「情報」が発信されているわけではないため、アメリカ国民は知っていても日本人は知らない「情報」も存在する。「情報」は受信者によって多方向へ変化していくものだが、本論文ではあくまで発信者としてのメディアに責任を持たせる。

 昨日、日本代表と韓国代表のサッカーの試合が行われたとする。試合は終始先制した韓国ペースで進み、なんとか試合終盤に幸運なゴールで日本が追いつき、結果は1対1の同点。ある男性は仕事の都合でその試合を観ることができなかったので、試合結果を翌朝の新聞で確認することにした。ある新聞Aのスポーツ欄に「韓国との激闘、決着つかず」と見出しがあれば、それを見た彼は試合展開をどんな風に想像するだろうか。一方、新聞Bには「韓国に苦戦、辛くも引き分け」の見出し。どちらの新聞を見るかによって、彼が想像する試合展開が変わってしまう。「メディア」という言葉が使われる時、「メディア」という形は一緒でも、その言葉に人間の感覚の拡張としての「メディア」と「マス・メディア」という異なる内容が含まれるように、あらゆる言葉はそれぞれに様々な内容を含んでいる。さらに、言葉は場所や時間などによって捉えられ方が変化していくことがある。ラモス瑠偉の前で「ドーハ」という言葉を使うのと、マラドーナの前で「ドーハ」と口にするのとでは言葉自体が全く違う響きになる。2011年3月11日を境に「福島」や「東日本」といった言葉はまるで別のものになった。新聞は文字や画像を扱うが、ラジオでは音声を扱い、テレビでは映像も扱う。言葉だけではなく、映像や音声も、1つの内容しか含まれていないものはまずない。つまり、扱い方によって「情報」を操作できるということだ。


 2010年南アフリカW杯、2022年カタールW杯でのベスト16という幸運を日本のマスコミやファンは「快挙」として讚えた。その後、2010年のW杯以降、日本人選手がこぞってブンデスリーガを中心に、海外クラブへと移籍した事もあり、ファンは日本代表の実力を錯覚し、2014年ブラジルW杯に向けて日本は異様な盛り上がりと「期待」とに包まれた。グループステージ敗退という結果は当然だったのにもかかわらず、国民は失望した。そのさまはまさに惨めであった。日本代表がなぜ勝てなかったのかを考えたとき、そこには日本人がフィジカル面で他国に劣る、コンディション調整がうまくいかなかった、パスサッカーが機能しなかったなどの理由が存在するであろうが、本論文ではそうした身体的・戦術的理由ではなく、「情報」(=「批評」)を発信するメディアに原因を見出し、スポーツの発展のために、改めてスポーツとメディアの関係を辿り、考え方を再構築していく。


 本考察では、「情報」の伝達手段として用いられる要素を扱う媒体として、日本のメディアの各要素の操作がいかに杜撰であるかということを各メディアが用いてきた技術とともに確認していく。さらにメディアによって発信されるスポーツに対する「批評」の現在地を明らかにし、メディアの愚かさの根源を、メディアの周囲の状況や社会で巻き起こる事象と絡めながら探り、スポーツの発展のためにあるべきメディア像を追求する事が本考察の目的である。

 最後に、この考察では私が卒業研究で記した文章も掲載していく予定だ。卒業後、更に考察を深めた内容もあるので、卒業研究時点から掲載したい。また、卒業研究ではあるべきメディア像について言及している文章が多いが、この考察ではメディアとは離れた部分のスポーツ批評もしていきたいと考えている。

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