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相模原つくいやまゆり園事件を考え続ける学習会とまゆずみ親子

昨年3月から始まったBADDREAM上映も、11月の大阪上映で一旦終えることができました。これまでご支援いただいた多くの皆さまこの場を借りてお礼申し上げます。上映は規模関わらず映画制作とは違ったエネルギーが必要で(自画自賛しなきゃとか)、色々反省点もありつつ上映を通してさまざまな方々と出会いつながることができたのは、何よりの財産となりました。そのつながりや思い出は一冊の本になる程ですが、取り合えず今書き記したいのは相模原津久井やまゆり園虐殺事件を考える学習会代表・まゆずみただしさんです。相模原事件の裁判も来月から始まるというタイミングもありエッセイ的に書き連ねます。(以下文体が変ることご容赦ください)

昨年3月、BADDREAMの新潟市民映画館シネ・ウィンド上映初日終了後、声がけいただいた仙人のような白い髭とアフリカの民族衣装のような帽子を被った男性がまゆずみ氏だった。氏は佐渡在住の医師で、学習会を3年前に立ち上げた。市内の福祉会館で毎月1回事件関連の映画を見たりして語り合うもので、私も知人を通して会の存在を知り顔を出すようになり、私の映画も取り上げてもらった。

映画はハードな内容だし、賛否あるのだがどんな形であれ、物の見方を変えられる貴重な機会である。この日もそれぞれの生活に根差した意見があり、嬉しかった。会の途中では、どうしても私に会って言いたいことがあると電動車イスの重度障害の方が来て「障害者は不幸だから白黒にしたのか」「こんな映画が作られるまで世の中悪化してしまった」とか凄まれた。私も不快にしてすみません、でもこれは実際あった事だし(ナチズム)、今また排外的なものが高まっている中で作らざるを得なかった、みたいなことを逆ギレぽく言ったように思う。その後話は優生学に変わり、まゆずみ氏が医者ならではの生物の授業みたく遺伝子の配合とか板書したりするディープな時間となった。
優生学を突き詰めたナチスの低落を見ても、多様性こそ優位なことは歴史的にも実証されている(多様性とは一見非効率に見えるが社会を強くするものだ)など、通勤の車中とかで一人で考えていたことが、共有されていくのが痛快で、その後も都合つく限りできるだけ会に参加している。今年はドキュメンタリー映画の「道草」上映会に携わったり、相模原の事件被害者の父親・尾野剛士さんや全盲の参議院議員・堀利和さんをお招きしての話もあった。毎回大変勉強となるが、その場にいる者しか共有できないのがもったいない。参加者は比較的年配の方が多くて、ネット社会への感度は低く、そのへんは発信も含めて、お力添えできないかなとも思っている。

さて、まゆずみ氏は、ホームレス支援を「越冬友の会」という団体として新潟でずっと取り組んできた人だ。思想的には天皇制反対の極左の部類で、かつては古町で一人天皇制反対運動をやったりかなり暴れていたらしい。自分は、反ヘイト、反ジェノサイドが第一で状況次第で支持政党とかは変わる立場なので、必ずしも考えが一致している分けではないけど、時々自宅に送られてくる活動予告のお手紙は、手書きの檄文コピーで、このネットの時代になかなか強烈で心に響く。 30代?の娘さんがいて、個性的で空気を読まない感じなど、何かしらの適応が普通と異なる症状を持っているようだ(いわゆる障害認定はされていない)。そして、氏のさまざまな活動には、娘さんも一緒のことが多い(正確にいうと奥さんと3人)。

さて、今年の初めに「優生保護法・不妊強制を考える学習会」が新潟市内で行われた。強制不妊当事者の北三郎さんが来て、無念の想いを語り、それぞれ専門家が団体としての具体的な働きかけなど話した。

発起人のまゆずみさんは、約100名集った満席の会場の一番後ろ、娘さんは一人最前列に座っていた。優生保護法の問題点を大学教授が、国の動きを(色々話題の)新潟選出の国会議員らがそれぞれの知見をもとに述べていく。そして最後の質疑応答。パラパラと手が上がり、ふさわしい受け答えが進む中、最前列のまゆずみ氏の娘さんも手を上げる。
怒りのこもった口調で議員に問いただすのだが、肝心の内容は「なんで国会議員は同じ質問ばかりするんですか?」とかどうにも的を得ない。
会場全体微妙な空気になる。しかし、父親のまゆずみ氏は一番後ろで腕を組んでにやにやしている(様に見えた)。
娘さんは止まらないし、奥さんも後方で野放しだ。良く分からないが何かに対して怒っていることだけは伝わる。議員もこなれているので一応それに沿った回答をする。ただ、多分それはおそらく彼女が聞きたかった回答ではないため噛み合わない問答は続く。気まずく混沌とした時間が経過して会は終わった。
北さんの悔しさに満ちた言葉や今まで知らなかった旧優生保護法の背景など知ることができ、大変実りある時間となったが、結果的に一番心に刻まれたのはまゆずみ親子の会場ジャックだった。

※まゆずみ親子

これまでの経験だと、こういった傾向や障害がある人がいる場合、隣に保護者がいて、監視体制を敷くものが一般的だし、世間もそうするべきという圧があったように思う。
しかし、まゆずみ親子はそういった世間の圧に対して果敢に抗っていたように見えた。まゆずみ娘の何に対してか分からなかった怒りは、そういった勝手に枠組みを押し付けて、やんわり排除していく、ほのぼのとした暴力に対するものと私は受け止めた。

近年、ダイバーシティ=多様性や共生とか綺麗な言葉は流通しているが、何かずっと違和感を感じている。それは「多数派が少数派の生存を認めてあげよう」という施し視点のもの、もっと言えば「身の丈」に合わせる限り認められるダイバーシティという構造だ。重度障害者が国会議員になった時も、ネット上では「貴様らにできるのか」という拒否反応が溢れた。つまり「生かしてもらっているだけありがたいと思え。権利を主張するなんておこがましい。身の丈に合わせろ」という圧だ。物乞いであること強いると言ってもいい。
身の丈に合わせろという圧は一見正しそうな言葉となって現れる(「あなたにとっても幸せ」「全体の秩序・効率」など)。もちろん、社会のインフラ・福祉がなければ生活できないし、どうしても「多数派が少数派の生存を認めてあげる」構造になってしまいがちだ。やっかいなのは維持される限りは少数派にとっても、何も考えなくてもいいし、楽ちんなことだ。しかし、身の丈の基準は、多数派の気持ち次第でどうとでもなる危うさをはらんでる。戦争や恐慌が来たら、生存が許される基準は恐ろしく厳しくなるのは想像に難くない(東日本大震災でも障害者の死亡率は健常者の2倍である)。

2年前にBADDREAMの企画を重度の障害者の方に話したときに、彼は「こんな時代(障害者が抹殺される社会)になったら、僕はこのまま受け入れてしまうかな」と自虐的な笑みを浮かべるのを見た時、悔しさと情けなさと怒りで涙が出そうになった。長年受け身で福祉の恩恵を受け続けてたことにより、主体性も生きる力も失った人間がそこにはいた。社会が牙をむき出しにした(身の丈を狭めてきた)時に抵抗することなど頭の片隅にもない。彼は、ネットも不自由なく使えるんだから、このご時世やれることは溢れている。しかし世間の身の丈に合わせて、その可能性を閉じてしまっている。

そのへんの気持ち悪さを乗り越えるにはとりあえず身の丈に合わない振る舞いで世間と摩擦を起こしていくことしかない(かつて青い芝の会がやってきた様に)。ちゃんと苛立ちを表明して、連鎖反応のように同調圧力に抗える強い個が生まれ、つながっていくのが真の意味でダイバーシティなんだと思う
先の重度障害の国会議員も、日が経ち、答弁する風景が日常化するにあたり、ネガティブな声も収まってきたように思う。世間の価値観は簡単に変わる(権力に従順な国民性という意味でも興味深い)。
そんな想いを、果敢に世間の圧に抗い続けるまゆずみ親子を見て高まるし、彼らが同じ地域にいることはとても心強い。

…ということで、年明けから始まる相模原事件裁判に先がけて、1月5日(日曜)に学習会が開催されます。事件を描いたドキュメンタリーを上映します。ぜひお越しください!

日時:2020年1月5日(日曜)午後2時〜
会場:新潟市総合福祉会館視聴覚室(新潟市中央区八千代1-3-1)
上映協力費:500円



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