見出し画像

新型コロナウイルス:社会と国家の間で

初出:https://akrateia.info/covid-19-mezhdu-obshchestvom-i-gosudarstvom/(2020年4月29日、ロシア語)
著者:マリア゠ラフマニノワ
(トップの画像は、ブリューゲル作「死の勝利」1562年)

新型コロナウイルス以上に現実との関わりをこれほどまで徹底的に・急激に変化させたものを思い浮かべるのは難しい。不安を煽るニュース・マスク・ゴム手袋・1.5メートルの隔たりで日常生活は悩まされている。日々部屋に隠遁して過ごし、凍り付いた空間の中で、異質で間延びした現在から抜け出せずにいる。

多くの人にとって、自主隔離は初めて長期的に自分自身と向き合う期間となり、真の意味で人格を試されることになった。大多数にとって、少なくとも部分的には人間のいない世界を、「After Us」を見る機会になった(こうした思案からミーム・ジョーク・イメージが次々と生まれた)。この観点から見れば、新型コロナウイルスは--少なくとも表象レベルで--今日を「以前」と「以後」に分ける一種のマイルストーンなのである。

この分断が持つ真に厄介な面の一つは、社会-政治的なものである。

「異常者たち」で、M゠フーコーは、統制・隔離・経理のテクノロジーを一気に発展させる上で、欧州におけるペストの蔓延が与えた影響を検証している:

ペストが発生した都市は--ここでは、中世の終わりから十八世紀の初めにかけて公布された、どれも全く同一の規則の一式をご紹介しましょう--いくつかの区域に分割され、その区域は街区に分割され、その街区は街路ごとに分けられて、各々の街路には見張りが、各々の街区には監査官が、各々の区域にはその区域の責任者が、そして、都市そのものには、その事態に対して任命された地方総督か、もしくはペストに際して補足的な権力を与えられた都市役人が配置されていました。(中略)病気であるということは危険であるということになって、その結果、介入が必要になるのでした。病気である者と病気でない者の間で分類が行われたのはそのときです。それから、一日に二回の巡視によって--監査官によって行われる生ける者と死せる者のそのような検査、そのような儀式によって--構成されたすべての情報、登記簿に記載されたすべての情報は、中央行政庁に都市役人が保持する登記簿と照らし合わされることになりました。(中略)ペストにおいて問題となっているのは、まず、排除ではなく、隔離です。狩り出すことではなく、一人一人に場所を与え、それを指定して、その場所にいるかどうかを隅々まで監査すること。(中略)狩り立て、排除、追放、周縁化、抑圧といった権力のテクノロジーから、ポジティヴな権力、生産する権力、観察する権力、知る権力、自らがもたらす効果によって肥大する権力へと、移行が起こったのです。

「異常者たち」、筑摩書房、2002年、50~53ページ

つまり、緊急事態の新たな経験が、様々な権威テクノロジーを改良する新たな基盤となったのだ。無論、伝染病蔓延以前のレベルに戻るつもりなどない。あらゆる緊急事態が同じように働く。新型コロナウイルスも例外ではないだろう。これを憂慮すべき理由がいくつかある。

それらに気づくためにはコロナウイルスの発生源そのものに目を向けねばならない。中国ではコウモリを食べたり、生体解剖実験に使ったりしている。農業サイクルに含まれない多くの動物もそうだ。しかし、コウモリは何とか逃げ出して自分を苦しめる者に歯向かい、戦いの中で相手を傷つけて感染させた。

いずれにせよ、その後に起こったすべての出来事によって、中国の動物を扱う慣習に対する多くの疑義が世界中から投げかけられた。例えば、英国は、美食の伝統を見直さなければ、収益性の高い商業プロジェクトから排除すると中国に最後通牒を出した。

同時に特徴的だったのだが、中国との国際協力情況にとって動物の法的立場は重要ではなく、その場しのぎの口実だったと判明した。多くの国が、動物に関してではなく、自国経済に対する損害という点で中国に損害賠償を求めた。ただ、特定の事例では、二つの問題が相互に密接に関連していると明らかになった。むしろ、この密接な関係は常に存在していた。それが今になって完全に露呈したのである。

マスメディアの表層を埋め尽くすレトリックから判断すると、この問題に近づくにはネオレイシズムの基盤を考慮しなければならない。世界中のインターネット゠コメンテーターや評論家の多くは、それまで自国の--遠く離れた天空の帝国ではなく--動物の運命を完全に無視していた。それなのに、自発的に団結して、中国人は「野蛮」で「獰猛」で倒錯しているようだと激しくかなり本質論的に非難したのだ。

嗚呼、これでは動物全般に対する態度は全く変わらない。実際、政治声明の因果関係は宣言内容と真逆だった。動物に対する態度がレイシズムの口実になったのではなく、レイシズムがその存在を正当化する根拠を探しているのだ--その例が動物との関わりなのである。

中国の動物闇市場

だからと言って、これら全てのために、中国で実際に行われている動物の扱いを真っ当に問題視できなくなってはならない。大切なのは絶えず一貫して批判することである。

長い間、国際法上のグローバル「民主主義」のコンセンサスは、文化的慣習はかなりの程度まで個々の国に任せる、というものだった。唯一の例外は--非常にご都合主義ではあるが--人を殺傷する慣習だった。環境保護活動家が始めた絶滅危惧動物を保護する散発的キャンペーンがこの慣習に追加されることもあった。

野生動物の食用は世界から注目されないままである。中国の文化的自治を失わないようにし、閉ざされた独特な社会の事柄に干渉しない(これは、一見して、アナキストも含めた万人が完全に認めてしかるべきことのように思える)という尤もらしい口実の下で政治的に正しいとされている。今日、中国独自の慣習の結果が世界に影響を与えたため、国際法に関わる諸機関はこの丁寧な中立性を再定義しようとしているが、その根拠はいったい何なのだろうか?

事実、あからさまな政治的レトリックの観点からすると、こうした情況への関わり方は二通りだけである。一見すると唯一の非権威主義的戦略に思える「慎重な非介入」(悲しいかな、未知の病気のリスクを伴うと判明した)と、自治を権威主義的に侵害する「非裁量的介入」(米国による「民主主義」の普及と同じだ)である。

セオドア゠デ゠ブライ。スペインのコンキスタドール(征服者)が犬に先住民を食べさせている様子(1590年)

中国に対する無関心が崩壊すれば、第二の選択肢が必然になる。だが、この場合、欧州中心主義と植民地主義の不幸な歴史に新たな別な物語が加わるだけになろう。普遍主義的プロジェクトを万人・万物に押しつける。これこそ西洋の古き良き真実なのだ。

この劇的ジレンマの嘘を暴くのが、社会的自治と科学的世界像を重視するアナキズムの光学である。従って、一見して中国は社会的自治が整っているように見えた(実際には違う)が、科学的世界像という点では明らかに間違っている部分があった。この場合、産業テクノロジーなど市場が求める産業の発展について語っているのではない。文化と社会が伝えるホリスティックな世界像を語っているのである。ならば、本当は何が起こっているのだろうか。

幾つかの分かり切った理由から、中国の外で暮らす私達は、現代中国についてほとんど何も知らない。しかし、その歴史を考え、折に触れて公表されるニュースを読むと、少なくとも、閉鎖的で極度に権威主義的な国家--遠くから見ても非常に恐るべきものに見える厳格な電子的統制システム等のデストピア実践を積極的に実験している国家--だと分かる。明らかに、中国の進歩は市場能力の進歩(ちなみに、西側諸国も自らが作り出すグローバル資本主義の諸条件に完全に依存している)であり、国家統制システムの進歩でもある。

この情況で、社会の利益と国家の利益とのギャップがますます目につくようになっている。実際、進歩しているのは国家による社会の従属である。これが問題なのだ。この意味で、今に至るまで世界コミュニティが微妙に避けてきた中国の「文化的自治」とは、社会の自治ではなく、国家の自治である。

従って、中央から遠く離れた場所に、電子的全体主義のない地域が奇跡的に残っていたとしても、その生活世界は何世紀にもわたって閉ざされたままであり、外部の現実とのアクセスを奪われている。この場合、社会の現実的定義を社会自体が持つ内部構造ロジックに従って絶えず更新する傾向を持つ力動的生活構造と解釈するならば、国家の効果は直接的ではなく間接的(社会の弾圧)である。国家はこうした諸社会の時を止め、何世紀も前に国家に隷属させた。他の社会や世界観との繋がりを剥奪し、眠ったような惰性サイクルに沈めた。これは、もちろん、国家にとって都合が良い。一目瞭然で予測可能だからだ。

中国貴州省

他の思考と対立して初めて思考は生まれ、他の経験と出会い、そのプリズムを通じて自分自身を再考することで成長が初めて生じるという。これが正しいなら、こうした諸社会の思考と成長はこの時間と共に止まったというのも正しい。惰性の強制を拒否することについてJ゠スコットはその優れた論文『支配されない技術』で詳細に研究している。彼はゾミアと呼ばれる国家なき統一体を形成した諸社会を実例として示している。

一方で、この大惨事は地球上の多くの社会に影響を与えている。国家に捕まり、その強制的秩序の「魔法にかけられ」、次々に仮死状態に陥り、歴史的反省も出来ず、固定した慣習--身体的慣習・儀式的慣習・宗教的慣習・農業的慣習・動物との関わりの慣習など--を見直せなくなっている。現代の科学知識の観点から怪物のように見えても、それは西側の政治的現状の維持にではなく、現実について多かれ少なかれ関連する作業概念に向けられている程度なのである。

これが、啓蒙された西洋が「野蛮」と見なす慣習(原註:これは根本的に間違っている。文明が宣言した国家を逃れた人々のことを歴史的に野蛮人と呼んでいるだけだ。この場合、国家に残った人々と国家に止められたその時間こそが野蛮なのだ)が現代も残っている理由だと思われる。アラブ世界・パキスタン・アフリカ諸国、近隣のダゲスタンについて語るときでさえ、まさしくこうした社会を常に目にしている。国家によって封鎖され、弾圧され、その時間と運動を止められているのである。

現代のダゲスタン女性に捧げた映画「彼女達も夢を見た」のアレクサンドル゠フェドロフ監督は、この傾向を適切に捉えていた。サンクトペテルスブルクでのプレミア上映後、彼は聴衆から皮肉な質問を問われた。「こうした女性達の抱える諸問題を、その社会が持つ文化を破壊せずに解決するにはどうすればいいのか」彼は次のように答えた。「西洋の標準をダゲスタン社会に押しつけるのが正しいと思いません。しかし、ダゲスタン社会が開放的になるよう手助けする必要があると思います。自分達以外--外の世界--と出会う可能性があれば、その独自性に基づきながら発展できるでしょう。」

A゠フェドロフ監督作品「彼女達も夢を見た:ダゲスタンの女性達の物語」のスチール

同様に、中国社会には、独自の文化的慣習--オオコウモリを食べる慣習のような--を省みる場がないだけである。完璧な権力機構に封鎖され、弾圧されて、あらゆる政治的主体性を剥奪され、過去数世紀にわたる自身の円環を催眠状態でさまよう羽目になっている。その結果、現在も未来も見通せない。そして今日になって初めて確実にハッキリした。この状態は、その社会にいる住人だけに危険なわけではないのだ。

長年の儀式と慣習が持つ闇から解き放たれたウイルスが惑星全体に広がる。世界はもはや閉鎖システムではないからだ。たとえ、権威主義政権が好ましく思わずに隠し続けようとしても。朝食・昼食・夕食にコウモリ(もしくはもっと酷いもの)を食べる風習がある中国辺境の村落住民がこのことを知らされていないとしても。地球の現実は変わった。この変化を意識的に考える時間がないまま自治だけを維持し続ける社会は、自身の責任ではないのに、地球にとって危険なものになっている。中国はこの明確な例なのだ。

しかし、これだけではない。ロシアもそうかもしれない。中国と同じ権威主義政権の経験を持ち、歴史的に、社会と国家の利害対立というドラマを幾度も繰り返している。N゠A゠ベルジャーエフのような曖昧で(逆説的だが)高名な現代思想家さえもこれに同意していた。

しかし、新型コロナウイルスの情況では危険の性質は別なモデルに依る。政治的主体性を常に剥奪され(最初は数世紀掛かって、次には革命後の数十年で)、ロシア社会は、重度のエディプスコンプレックスとその特徴である聖なる父との同一化が混ざり合い、小児神経症に落ち込み、実質的にどん底に達した。2014年の悲劇的事件(ロシアによるクリミア半島とウクライナ東部の占領)と、その後2年間の祝賀気分が、この底辺の近くにいると証明した。こうした情況で、ロシア人が、これまで以上に広く自身の利益を侵害する一連の厳格な法律と措置を無条件に・不平も言わず・ほぼ魔法をかけられたように受け入れたことは、ごく自然に思える。

だが、同一化の段階の幼児が皆そうであるように、ロシア社会は矛盾を抱える運命にあった。自己を明らかにする機会を求めていた。どこかで不服従を示さねばならなかった。しかし、どこで?厳格な父を怒らせずに、どうやって?

新型コロナウイルスはこの差し迫った問題に対する回答を示した。遂に、政治に触れずに服従しない機会を手にしたのである。赤ん坊は知っている。些細な逸脱は厳格な父すらからも怒られずに、父に触れられるのだ。可愛い悪戯のように。自主孤立体制の最初の指示に耳を傾けながら、ロシア人は喜んでそれに違反しようとした。その結果、感染者数が増加した。ソ連は不滅だと虚勢を張る。この薄汚れた亡霊がこうした自発的軽率さを正当化していた。

ボス「快楽の園」1500‐1510

自助と共助の戦略に関する民衆会議も集団的コンセンサスもなく、ロシアの現実にお馴染みの無力な朦朧状態さえもなく、楽しげな祝祭が突如始まった。あたかも、ソ連以後の世界が、普段の生活で自分達にお馴染みのもので、他の世界と比べて陰鬱でも死体愛好でもないかのように。この逆説的不服従は当然新たな統制手段--そしてこうした手段を拡充する新たなテクノロジー--を生んだ。新型コロナウイルス蔓延後にこれらは消え失せるのだろうか?そして、それらを使った経験を手にしたことで、世界はどのようになるのだろうか?今は推測するしかない。

自明ではあるが、今のところ、こうした社会のリスクはその社会自体に対してだけである。赤ん坊が危ないことをしているようなものだ。メディアで徐々に増えている感染者虐めの事件を考えれば、これはなおさら明らかである。

しかし、ロシア社会は、部分的には領土の大部分に中国のような密閉性を保ちながら、大部分はグローバルな文化プロセス(科学・芸術・テクノロジーなど)から切り離されている。中国社会同様、ロシア社会の大部分はロシア国家に止められた過去の時代に閉じ込められたままなのだ。この意味で、もはや現代には適さない古風な対応と行動パターンの惰性を再生産する運命にある。同時に、政治的主体性が全くないため、こうしたモデルを越えて成長できず、現在と将来のヴィジョンを独自に形成することもできない。従って、自らの意思に反して巻き込まれた時代に相応しくなることもできない。これが、伝染病のような複雑な課題を含め、現代の課題に適切に対応できない理由なのだろう。

ここまで新型コロナウイルスの大流行と国家現象との関係を示す例を二つだけ考察してきた。しかし、他国の出来事の軌跡と一部の国での驚くべき高い死者数とは、この関係がもっと一般的な性質を持つと示している。

つまり、現代の根本的特徴は、史上初めて、社会と人間にとって国家は危険だと多面的に・鮮やかに・世界の至る所で同時に証明している点にある。独自の内部論理に従って発展する動的ユニットとしての諸社会の時代を止め、政治的主体性を剥奪し、歴史の中で諸社会の方向を見失わせ、互いに調和して動く機会と人類の知識の増大を諸社会から奪い去る。そして、今日の重要な出来事に--それが否応なく万人を巻き込む限り--諸社会が適切に対応できないよう断固として妨害する。

中国のように過去の惰性に囚われる・ロシアのようにエディプスコンプレックスの小児病で麻痺する・西洋のように新自由主義の機械的性質に苦しむ。これら全てが、未だに理解されていない新しい統一に直面していると分かる。現在、この中から二つの途だけがハッキリしている。現在の政治的プロジェクトを見直して急進的な歴史的主体性へ接近するか、新たな統制シナリオを習得した国家をハイテクで強化するかだ。後者は必ずや、ピーク時に新たな奈落を実現する役目を果たすだろう。その自然な段階が新型コロナウイルスだったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?