それでも君は教壇に立て
私は過去の人間だ。
教師は敬意を払われ
教育には理念があった。
「あなたは本当に担任運がいいわね」
と母に言われるくらい教師に恵まれた私は
小学生の頃から教員志望だった。
目の前にいるのは手本。
元々私は個性が強く、また同級生も個性的で、学級崩壊してもおかしくないクラスをまとめる担任の手腕はそれは見事だった。
いじめが発生しそうになったときもあった。
空気を読まずいじめの仲間にならないタイプが隣の席になった。私か。仲間外れを気にしなかったもんなぁ。
教師は生徒ひとりひとりをよく理解するよう常々心がけよ。
学校とは、アクシデントが起きる場所。
デイキャンプで着衣着火がおきた。男子生徒の服が袖からあっという間に燃えた。担任は
「砂かけろ!」
と自分は上着を脱いで火を叩き砂をかけさせて消した。
教師は万一を想定してシミュレーションし、いざというときに速やかに対処せよ。
ありがとう、先生のおかげで私は後に学校火災の初期消火に加わり連携プレーで怪我人もなく鎮火することができました。
生徒でありながら、学級運営を考えたりしている変な小学生。それが私。
中学生、高校生、浪人時代、大学生。
上手い授業はテクニックを盗む気でガン見、下手な授業は反面教師。
大学は教育学部の伝統校。それは厳しくしごかれた。母校での教育実習では期待の新星で授業の話し方の語尾まで指導された。
さて、当然教員採用試験を受けると周囲に思われた私が、はた、と迷ってしまったんだな。
(生徒の大部分は学校以外の社会に出ていく。私は学校以外の社会を知らなくて良いのか?)
コンピュータの会社に就職した。
適性はあったんだけど、誰しも迷いが増える社会人四年目。
壁にぶつかった。
そこに新入社員ガイダンス講師の仕事が回ってきた。
資料に凝った。
初心者に分かりやすく。
即戦力になるほどの新人もいて、彼らは大抵講義を聞かず仕事を内職している。学校でもいるよね、授業聞いてない生徒。
聞かせてみせる。
弊社特有のシステムや組織構造、挟み込みながら話を進めると、要所要所で全員が顔を上げる。
こちらは授業研究10年以上、皆さまのご指導ご鞭撻のおかげで分かる話し方を研鑽している。
天職。
コンピュータは好きだけど、やはり私の天職は教師らしいぞ?
天職に転職。
それがちょうどリーマンショック、バブル崩壊に重なった。
教員は狭き門。
面接官が「企業における生産性は教育では何ですか?」
私「どれだけ短い時間で生徒ひとりひとりを深く理解できるか、でしょうか」
すると
「受験合格率と答えたら不採用のつもりでした。」
今じゃすっかり学校は合格率を追いかけているけどな!
そういう理念が教育にはあった!
赴任したのは、いわゆる課題集中校。困難校とも言った。
戸惑った。
私は受験進学校から難関大に進学した。生徒のニーズがわからん。
私の一年目は大失敗。三年生の副担任だった。
就職希望者が多いのに大学受験対策やっちゃったもんなぁ。
戸惑うことばかりの中で生徒の家庭環境がいかに過酷か見えてくる。
卒業、それが難しい。
入学から卒業式までにひとクラス分の生徒が退学する。退学を余儀なくされる。
二年目に一年生の担任になった。学年主任が言った。
「この学校に入学する生徒の半分は、学校も教師も敵だと思っている。それを変えることから始めよう。生徒と話そう。」
結果、信頼を得られることもあった。
だが、櫛の歯が欠けるように生徒が減る。
私のクラスは二人退学した。
三年目に二年生の担任になり、ひとり退学した。
また、教師は生徒の死に向き合わねばならない。
教えていた生徒が遺影で笑っている。
私の場合は交通事故だった。事故、病気、自死…命がこぼれ落ちていく。
教員四年目、三年生の担任。
目標は
「全員卒業」
成績が低い生徒、指導部に眼をつけられている問題児、色々な生徒のことをこちらnoteに書いたことがある。
三学年四月から一冊のノートを書き始めた。
一ページにクラスの生徒の名をひとつ。気がついたことを書き込みメモを挟む。一年で厚さは三倍になった。
親にも教師にも「良い子」と思われている生徒にだって悩みはある。悩み多き年頃なのだ。
担任が問題児に振り回されていると、良い子は担任に見られていないと感じる。ノートで物理的に可視化すれば、関わりの薄い生徒が見えてくる。
ともかく必死な四年目、ひとりも欠けなかった。全員卒業できた。
自信になった。
教師はある程度ハッタリでも自信を持って授業をする必要がある。それが虚栄や胡散臭さに繋がる危険性はあるが、クラスと言う舟の梶をとるにはやむを得ない。
そしてうちの県だけかもしれないが、在籍年数がある程度になると転勤しなければならない。
私は転勤した。中堅進学校に。驚いた。
システム化進んでない!
前任校は体力が必要なので平均年齢が若く、コンピュータ好きが数人いて私の出る幕はなかったんだが。
三年生の副担任のとき、Lotus123で管理していた個人票(個人の成績評価)から調査書に印刷できるようにした。
システムエンジニアのスキルが役に立った。いや、システムというほどのものではないのだが。
こうして新米教師から頼られる教師(主にパソコン関係で同僚から)のフェーズに移項した私は、仕事も油が乗りきってノリノリであった。
中堅進学校は楽だと言われる。
確かに生徒は「良い子」が多いのだが、かなりの率で「心の病」を持つ子が多かった。及びその予備軍。
「良い子」の心の闇に気づけないことは多い。
保健室の養護教諭を中心に、そういうのに気づくタイプの教員がよく話をしていた。そのあたりもこちらnoteに書いたことがある。
そうやって教科以外の仕事を抱えた。多忙であった。がむしゃらであった。
そして事故は起きた。
詳細は省くが事故のあとがパワハラだった。
ちょうど「ゆとり教育」導入期で、私は反対していたからなぁ。ここぞとばかりに圧力がかかった。
人間の心って、あっさり折れる。
教壇に復帰はできず、退職して今に至る。
時々考える。
私は何を残せただろうか、と。
何も残らなかったかもしれないなぁ。
生徒の人生のたかだか三年間、すれ違い通り過ぎるだけなのかもしれない。
それでも。
教員という仕事への敬意はなくなり、誰もが教員は給料の割にハードワークでブラック職場であると知ってしまって、教員志望者は減っている。
それでも。
人間が成長する一番大事な時に、その成長に関わることができるのが教師だ。
彼らに教えた成長させたと思うのは誤りで傲慢である。
彼らは我々が教えようとすることと姿と、教師の人間としての後ろ姿まで見て自ら成長していく。三年間で驚くほどだ。
そんなことに関わることができるのは教職しかない。
教師とは奇跡である。
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