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ジーパンとTシャツのふるさと

先日、東京・丸の内に行って思ったことがある。

東京駅の構内をさまよいながら、その地下空間の広さに、おのれの心にも巨大なクレーターができたような気持ちになった。

これだけの人工的な空間を創出するために、いったいどれほどの手を加えたのだろう。つくづく、取り返しのつかないことをしたものだと思った。いや、取り返せるものなんて、どこにもないのかもしれない。

普段、丸の内に行くことはない。この時は、ある催しものを訪れるために行った。

お昼どきだった。昼休憩中であろう、はたらく人々とたくさんすれ違った。なぜ昼休憩中のはたらく人々だと、私は認識したのだろうか。

・服装。ピシッと決まっているが、おしゃれ。綺麗。決めどころとハズしどころのバランス感。仕事できそう。
・みな、首から社員証のようなものを下げている。休憩中くらい外せばよいのに、と思ったが、あれが職場のビルを出入りするために必要なのだろう。「私はこのあたりで働いている者ですよ〜」と明かしているのに等しい。そう受け取られて構わないと思っているか、むしろそのことをアピールしたいくらいの気持ちでいるか、それ以外のどれかである。
・群れている。3人〜5人程度のグループを多く見かけた。皆でランチをするのだろう。おなじようにこのあたりで働く休憩中の人で、単独でいる者の多くを私は見逃したのかもしれない。なんとなく服装や髪型の雰囲気といった共通性をもった人がグループでいる光景は、よく目立つ。

といったヒントから、そういった人たちを、このあたりで働いていて昼休憩中の人なんだろうなと、その時の時間帯と照らし合わせて思ったのである。

重ねて言うが、普段、私は丸の内というエリアを訪れることがない。実際にここで働く人たちを目撃する回数よりも、漫画やドラマや映画や小説などの描写の中でこのような人たちを目撃する回数のほうが多いかもしれない。そう、私にとって、ここは、ここではたらく人たちは、ファンタジーの世界、あるいはその世界の登場人物だ。

私のような、いつでもジーパンとTシャツとフードのついた羽織りもので過ごしている者を探すのならば、間違いなく丸の内の外側がふさわしい。ここでは私は、異邦人なのだ。

あのピシッとした格好をした人たちの目に、私はどう映るのだろう。映ればまだ良い。無意識に除外されるかもしれない。認知されないかもしれない。悲観的すぎるだろうか……これは負い目か。

かといってあの人たちのようになりたいかと言えば、まったくもってそのようなことは思わない。Tシャツとジーパンのふるさとは、いいところだぞ。

キャベツ畑とかがあるから、綺麗なカッコなんかしてちゃダメなのだ。

お読みいただき、ありがとうございました。

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