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【創作】曼珠沙華(まんじゅしゃげ)(2,114字)【投げ銭】

彼女の細い腕からポタリと垂れたのは、紅い血だった。

反対側の手には、先端を同じ色に染めた、ぎとぎとした鈍い光沢を持つ剃刀(かみそり)が握られていた。

「……何をしているの?」

僕の第一声はそれだった。

放課後の教室の静けさの中で、その声はやけに響いた。まるで詰問(きつもん)のようだったが、他に何が言えたろう。

彼女は何も答えず、切った腕を庇(かば)うように、僕に背中を向け、嗚咽を始めた。

そして空間を切り裂くような鋭い音が起(た)つ。剃刀が彼女の手から落ちたのだ。その音は僕の耳に飛び込み、脳内に響き渡った。細胞の一つ一つが切りつけられるような心地がした。

僕は暫(しばら)く、その場に立ち尽くしていた。窓の外、夕日に染められた紅い雲が、秋の空にゆっくりと棚引いていった。

7年前のあの秋は、今でも僕たちを縛り続けていた。

その頃、僕には7歳離れた姉がいた。姉はピアノが大好きで、僕と、週末になると家へやってくる彼女に、よく弾いて聴かせてくれた。

姉が僕らに教えてくれた曲は花の種類ほど沢山だったけれど、一番思い出深いのは「アマリリス」という曲だ。姉は彼女が家へ帰る頃になると、いつもこれを弾いてくれたから。

彼女は姉の演奏に合わせて歌を歌いながらお別れをした。姉が弾き終える頃にはもう彼女の姿は無く、僕は寂しくなったのだけれど、幼い少女のような可愛らしさと、大人びた哀愁が混在するこの曲は、姉によく似合ってるようで、僕は好きだった。

僕ら三人は、とても仲が良かった。

しかしあの秋の、数ヶ月前のある日を境に、姉は僕らにピアノを弾いてくれることはなくなった。週末になると着飾って、家にいることすら殆どなくなった。

「お姉ちゃんは、大人になったのよ」

どうしてだろうと悩む僕に、彼女はそう教えてくれた。どういうことか理解できなかったが、木の葉が紅く色づくことのように自然なものだとして、無理矢理自分に納得させることにした。

だけど彼岸花(ヒガンバナ)が咲き誇るようになったあの日、家に帰ってきた僕は、腹に包丁を突き刺した姉の死体を発見することになる。

その首には、彼岸花の首飾りが掛かっていた。

『あなたたちといられた時が一番幸せでした。けれど、ずっとそのままでいられるなんて、許されなかったから。素敵な日々を有難う』

ピアノの上に置きっぱなしにされた「アマリリス」の譜面には、そう書き残されていた。

今、僕らはその頃の姉と同じ年齢になった。

あの日のように、その丘には一面に彼岸花が咲いていた。

「……今でも考えるの。お姉ちゃんがどうして死ななくちゃいけなかったのか……」

僕の傍(そば)に立っていた彼女が、夕日に紅く染められた唇を動かし始めた。

「……わかったんだ。大人になる度(たび)に、傷ついていくの……。私も、お姉ちゃんのように……」

彼女は、自分の腹を両手で押さえた。それはよく見ると少し不自然に膨らんでいるのがわかり、僕の胸は締めつけられた。

「……たった一回やっただけなのに……それでも、こんなになっちゃうのね。……でも堕ろすなんて……出来ないから。私が犯した過ちだから……いっそ、死にたいんだ」

そう言う彼女の腕を掴(つか)んで、僕は言った。

「……僕が、何とかするよ」

そんな台詞のどこに信頼性があっただろう。

また、これは、本当は僕には全く関係の無い話なのだ。僕がその子の父親であるわけでもないのに。

けれども僕の中で煮えたぎる得も知れぬ高ぶった感情が、そんな言葉として出たのだった。

「……ありがとう」

彼女はそう言った。しかし僕の手をゆっくり払うと、続け出た台詞はこうだった。その目に、涙を一杯溜めながら。

「だけどね……わかるのよ。このまま生きてたって不幸にしかならないって……。君にだっていっぱい迷惑かけちゃう……君を、傷つけたくもないもの」

もう、傷ついているかもしれなかった。でもそんなことは決して口にすることはできなかった。僕のことはどうだっていい、そう叫びたかった。

けれどその前に、彼女は僕に背中を向け、こう言い放ったのだった。

「私のことは、忘れて」

サヨナラ。嗚咽を漏らしながら彼女がポケットから取り出したのは、鈍い光沢を持つ――。

彼女はもう、僕を見てくれてはいなかった。剃刀を持った手を、自分の首筋に宛がった。僕を残し、ひとり逝(い)こうとしていたのだ。

僕は、とっさにその腕を掴んだ。彼女の口から小さな呻(うめ)き声が漏れた。剃刀は彼女の皮膚を少し切りつけたが、直(す)ぐに地面に落ちた。

素早く、僕はそれを拾い上げると――。

拾い上げると、彼女の顔は僕に向いた。しかしその目は既(すで)に死んだようで、何も見ていなかった。何の色も映っていなかったから。

僕は、彼女の視界を紅で染めた。僕の血で。手首から湧き出した、鮮血で。

彼女の目に、感情が蘇った。涙が溢(あふ)れ出した。口からは、悲鳴が漏れた。裂かれた僕の手を抱きしめ、泣いてくれた。

僕は彼岸花の海に倒れ込んだ。どんなに傷ついても、こんなに綺麗な紅だから。悲しまないで、僕のことを見ていて。

君はいつだって、ひとりじゃないから。

薄れゆく意識の中で、僕は彼女の腹に手を当てた。

新しい命が、その中で動いていた。

(完)


オリジナル版:

(画像出典:Free Images - Pixabay)

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