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【翻訳】ガッサーン・カナファーニー『過ぎ去らぬもの』(パレスチナ)


 列車は息を切らしたようにして、テヘランへ向けて美しい道をのぼっていく。アバダーンを出発する前に、車掌は私たちに言った。
「身の回りをよく警戒しなければなりませんよ。道のりは長く、スリたちが夜の訪れる機会を利用しますからね。彼らお得意の生活様式で......」
 私は寝まいと決めていた。側には、夜に読むことのできるカラー刷りの本が一冊ある。多くを感じすぎ、多くを知りすぎた人の書いた本だ。私のいる車室はつつましい。向かいの席に座っている美しいイラン人の女性が、私の中に例のスリを見出そうと、探る目で私を見ている。まだ気を許していない。そして老人、父に違いない。列車が長旅で車体を揺らす前に、彼は眠りに落ちてしまった。私の隣に座る静かな友人は旅路に思いを馳せている。この友人の美点はべらべらと喋らないことだ。話すとしても、それはアラビア語だ。
 自分自身と共にいる者達をスリから守る最善策は、あのアラビア語を7語しか知らない太った車掌が忠告するように、寝ないことだろう。太った車掌は私に心配してみせた......私は痩せていて、青ざめた顔をしているから、徹夜はできまい......しかし私はできると彼に言った。
 車掌が口にしたイラン人女性のジョークは、私にはわからなかった。彼は長いこと笑って、その妙齢の女性を指し示した。彼女は顔を赤らめた。彼女は年老いた父とともに汽車に乗り込んだ。
 友人は「あのイラン人の顔はまったく好みじゃない」と言った。「あのイラン人はドクター・モサデクに似ているな......もしモサデクが女だったら決して美人ではないだろうが......」
 そんなわけで、友人は私がその発言に納得したと確信した後で、断言した。「もしあの女と話す機会が巡ってきたら、自分はライバルなしに、そのチャンスをものにするだろう......」
 実を言うと、私は話す気分ではなかった。本は素晴らしかった。印刷は上品で、挿絵は独特だ。その言葉は底なしの井戸の覆いに他ならない。もし取り除くことができたとしても、底を見ることは決してできまい......その本はオマル・ハイヤームの名を負っていた。
私にとってその本の価値とは、ある四行詩が鉛筆で印を付けられたことだった......その詩は私の愛した娘が残したもの......

  おお、愛よ もし私とあなたが運命に合意できたなら......
  小さな、小さな断片へと
  この世界に唯一の封印を破壊するために
  私たちの心のままに
  一から世界を作り直すために......

 本を開くと、意識せずともそのページが勝手に開いた。長旅の香りは刺激的に思われた。その四行詩のまわりに鉛筆で書かれた円は消えかかっていた。彼女が本にその円を書き入れた日から8年がすでに経っていた。それでも、私は決して彼女のことを忘れないだろう。
 汽車では寝たくない。それは身の回りを警戒するためではなく、8年前に起きたことの、霧のように曖昧な一瞬一瞬を呼び戻すためだ......私は記憶を呼び戻しはじめた。
 夜のとばりが下りる......一瞬、車輪の規則的な音が、疲れた頭を過去へと追いやる不思議な音楽のように思われた。

 イラン人の美人は、私がスリでないと、あるいは少なくとも危険なスリではないと、ようやく安心した。不安は眠りに屈してしまった......友人は暗い線路をみつめている。眠る彼女の美しさを凝視することもはばからない。
 ライラは眠るとき、寝顔を見ないで、と私に頼んだものだ。眠って自分の意志が及ばない間に、素の顔をさらしてしまうだろうと信じていた。彼女は私に対する本当の気持ちを私に知られたくなかった......彼女は私が自惚れることを恐れていた。
 彼女の名前はライラではなかった。彼女は私のことを「カイス」と呼んでいたから、私も彼女のことをライラと呼んだ。
 ハイファにあった私たちの家は彼女の家からそれほど遠くなかった。私たちの家の右手にある一つ目の曲がり角の奥に彼女の家はあった。4つのドアを数えるだけでいい、そして白い建物を3階に上がれば、確実にライラの家を見つけることができる。もしハイファの爆撃のあと、その建物が破壊されていなければ、ライラはまだそこに住んでいるはずだ。
 私はハイファがユダヤ人の手に落ちる前に、そこを出てしまった。私は人生で一度も銃を手にしたことがなかった......私たちの通りを出た先にある長い通りは、私の唯一の縄張りだった。私はその通りのシンボルの一つとして顔が知られていた。「ハイリーに会いたければ、通りでいちばん美しい娘を探せばいい。彼はその娘の後ろにいる」と、その地区の若者たちは言ったものだ。
 私がライラと親密になった後、彼女は私に言った。「あなたは軽い男ね、ハイリー。でも本当のあなたはそうではない。だから、あなたのことを好きになると、私は確信している」
 ライラは自分とは別のタイプの人間だったが、親密になる頃までそのことに気付かなかった。私は、彼女が私に何かを隠していると気づいていた。しかし、私は知らなかった。その優しい娘が、並みの勇気しか持たない男には想像もつかないようなこと、爆破作戦を遂行していたということを。彼女がはじめてそのことを私に話したのは、あの忌まわしい事件が起こったあとだった。

 実を言えば、私はオマル・ハイヤームが誰なのか知らなかった。ハイヤームについて、多くのことを教えてくれたのは彼女だった。私は彼の四行詩よりも彼の本の挿絵に惹きつけられた。彼の四行詩はひどい気管支炎を患った人のうわごとだと、私は確信していた。
 荒々しく逃れがたい愛、ライラはこれを「渦巻ける沼」と名付けていた。その愛ですら、彼女にその大義を忘れさせることはできなかった。むしろ彼女は、私たちの生活など取るに足らないと、私たちの生活を私たち以外の何千もの幸福のために捧げたなら、その価値は頂点に達すると、私に理解させようとして骨を折っていた。
 はじめて読んだハイヤームの詩の意味を悟って、私はライラに言った。「この男は負ける前から諦める類の人間だよ」
 私はこの発見に喜んでいた。ライラは自分のことを自慢に思うだろうと、心の中で呟いた。しかし、ライラは得意がっていることを示すようなそぶりを見せなかった。ライラは本を示しながら私に言った。
「多くを感じすぎる人は、まったく何も感じない人に勝る......」
 この「まったく何も感じない人」とは自分のことだと、最近になってようやく私は理解することができた。それに気づいた日、私は怒らなかった。というのも、ライラと私の物語はその頃すでに終わっていたのだ。

 ライラはその後、変わってしまった。つまりそれは、ある人は争い、ある人は傍観し、さらにある人は裏切り者を支持したような時分だったのだ。
 ライラは私が知ることもなかったある作戦を行おうとしたときに、この裏切り者たちの仕業でユダヤ人に捕まった。彼女は丸九日が経った後に帰ってきた。どのようにして起きたのか誰にも見当がつかないような偶然の連続の後ではじめて、彼女は自分の生を守ることができた。
 ハダルから戻ってきた後の彼女に会った瞬間のことは、未だ私の心に深く刻まれている。私は泣いている、あるいは震えている姿を見るとばかり思っていた。というのも、私は多くの人の口から、彼女が牢で過ごした幾晩にもわたるおぞましい夜のあれこれを聞いていた。しかし、私が彼女を見たとき、彼女は恐ろしく静かだった。もはやどんな輝きも彼女の両眼にはなく、ただ沈黙した悲しい顔があるだけだった。
 低く静かな声で彼女は私に言った。「9日間、ずっと、彼らは私を犯した......」
 私は何も言えなかった。「9日間ずっと祈っていた」と言ったかのようだった。私が彼女を慰めてかけることのできる言葉は、卑しい何かのように感じられた。その言葉の底なしの卑しさ......彼女は別の言葉でその場をおさめた。
「私のことは放っておいて......私は引き裂かれた女だから」

 汽車は道のりの三分の一の場所に位置する駅へ差しかかっていた。止まるためにキーッという不愉快な音を立てはじめた。イラン人の美女は目を醒まして身支度をはじめた。老人はまだ眠っていた。友人はまだ外の景色を見ていた。私の目の前を低い灌木が通り過ぎた。そして、駅のホームには輝きのない明かりがつきはじめ、窓の外でゆっくりと流れていった。
 私はホーム上に7歳くらいの男の子を見かけた。その子の服は裂けていたが清潔だった。子供はゆっくりと目の前を通り過ぎる車両を数えていた。彼はアラビア語で数えていた。友人はその子供を指さした。そして私たちは一緒に彼の小さな声に耳を傾けた。
「6...7...8...」
 友人は頭を縦に振り、ことを要約して言った。
「アラベスターンだ!」
 彼は一言いってから、車両を下りて食べ物を探しに行った。容姿の可愛い褐色の子は気晴らしのできるものを売っていた。しかし彼は自身の職業を忘れたようで、長い列車から目を離さないでいた。彼は疲れているようだった。私は窓に彼を呼び、アラビア語で彼に尋ねた。
「何を売っているの?」
 彼は窓にもたれかかりながら言った。
「僕もアラブ人だよ」
「君の父さんは何をしてるの?」
「新聞を売っているよ、あそこで」

 列車はまた鼓動を刻みはじめた......私の友人が持ってきてくれた食事はイラン人の女性が食べた。私は食欲がなかった。本は消えかかった鉛筆の線で囲まれた四行詩がまた開かれていた。私は大きな声でその四行詩を読んだ。その声で女性は食べ物を噛むのをやめた。
  
  おお、愛よ 世界に唯一のみじめな封印を
  小さな小さな断片へと破壊するという運命に
  私とあなたが合意できたなら......
  私たちの心のままに
  世界を一から作り直せたなら......

 私はまったくライラにふさわしくなかった。彼女は私よりはるかに優れていた。私は臆病で死を恐れていた。私はハイファを守るために武器を持つことを拒んだ。ハイファがユダヤ人の手に落ちたと彼らが言ったとき、私はナークーラの岬にいた。なぜだかわからないが、その知らせを耳にした瞬間に、ライラがハイファを去る前に言った言葉を思い出した。
「私はあの過酷な9日間を忘れることができない。それでも、私はハイファを守り抜きたい。私は私の人生以上のものを捧げてしまったとわかっている......それでも、私は自分の人生そのものも捧げたい。それはいいことだから。そして、あなたはハイファを去り、ハイファから逃げることができる。しかし、あなたは来る日に目を醒まし、惨めな悲しきライラのことを見出して悔やむに違いない。私はハイファに残り、あなたがハイファから去るのを引き留めた...…」
 隣人が彼女を連れて行くために来た時、彼女は隣人たちに言った。
「私はあらゆるものを失ったが、美しいハイファでの、私の美しい過去まで失いたくない。過ぎ去らない何かがあってほしい......」
 私がハイファを去った日から長い時間が過ぎてしまった。今になって、私はまったくライラにふさわしくなかったのだと感じている。どうして彼女のような勇敢な人間が私のような臆病な人間を気にかけてくれたのだろうか? どうして彼女のような素晴らしい人間が8年もの間ずっと私の脳裏に焼き付いて離れないのだろうか? なぜ彼女は汽車がカーブを曲がる前の汽笛のように、私の頭を悩ませるのだろうか?

 老人が長い眠りから目覚めた。彼は乾いた地面の割れ目のように細められた目で客室を見回した。彼は私の顔に微笑んで、私の膝の上に置かれた本を指して、くだけたアラビア語で叫んだ。
「オマル・ハイヤーム?」
 私は頷いて、彼が本を手に取ってその挿絵を眺めるのにまかせた。私の友人たちはいつも私が空想を愛する類の人間だといって私を弾劾した。私がクウェイトにいたとき、「ハイヤームの墓にバラの花束を供えるためにイランへ行きたい」と言うと、彼らは全員で笑って言った。
「あいつは激しい試練を生きたがっているよ、それが好きでたまらないと自分に思い込ませるほどの激しい試練を!」
 私は自分が人の大地を生きぬ人間、ライラが言ったように、子供のままでいざるをえなかった人間だと感じた。一瞬、私の過去が本当に恥じるべき何かのように思えた。8年間、ライラとの思い出を何度も思い返している。まるでライラは私が思い出すためだけに作られたかのように。
 はたしてライラという名前の女性は、本当に目の前に存在したのだろうか? それとも私が作り出して信じ込んでいたのだろうか?
 私の友人が列車の窓を開けると、冷たい風が私の頬に打ち付けた。同時に、ライラは私がオマル・ハイヤームの墓にばかばかしいバラの花束を供えることなどまったく興味がないのだと感じた。花を供えるのは、私が暴力的な愛の犠牲者だと、自分自身に思い込ませるためだ。
 なぜ私はハイヤームの本を大切に持ち続けているのだろうか。真実は誰も知るまい。私は、他人がその本を見て、自分がハイファとの繋がりを持ち続けていると思うことを望んでいるのだろうか?
 老人は感謝を口にしてハイヤームの本を返した。その本が私の膝に落ちたとき、本が勝手に開き、古い鉛筆の消えかけた線で囲まれた四行詩が現れた。
「ライラは私を変えられなかった」と、そのときになって私ははっきりと自覚した。これが無価値な人間というものなのだ。これが私のすべて......死者の廟に置かれたバラの花束......過ぎ去っていくもの......彼女は彼らに言っていた。「過ぎ去らない何かがあってほしい」
 
 車輪は軋んだ音を立ててゆるやかなカーブを曲がる。汽笛が鳴った。地平線の彼方には墓地がある。白い墓石が水差しのように大地に林立している。その墓石は固く、冷たく、決して枯れない。はたして彼女の墓の上に大理石の墓標はあるだろうか?

1958年 ダマスカス

翻訳:ريحان السوغامي
底本:غسان كنفاني (الأعمال الكاملة : القصص), الكملية, 2023

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