Nu lyser løv i lunde 【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

YouTubeで、新しい再生リストを公開しました。

ニールセン (C.Nielsen) 作曲 Nu lyser løv i lunde
(CN256W /1921年) Johannes Jørgensen 作詞
 
いま、木立の葉は光る

 

 毎年、桜がすんで、山がブロッコリーになる体勢にはいった頃から徐々に歌いたくなる歌です。
 シイやカシの花でむせかえる5月の連休あたりから、7月の梅雨明けあたりまで、原付に乗ったら、たいがいこの歌を口ずさみながら緑の山沿いの裏道を爆走しています……いや、ウソです。運転へたなので、30キロギリギリでよたよた走ってます。

 まあ、おばちゃんの原付の腕前のことはいいから、いっぺん聴いてみてくださいな!


 クラシックはやっぱり苦手……というひとは、こちらのノリノリのをどうぞ。


  ニールセンの新しい歌に出会うたびに、ネットで検索をかけて、デンマーク語をGoogle翻訳にかけて、歌詞やら作曲のいきさつやらについて調べるのですが、なにせ、自分はデンマーク語はあいかわらずポンコツだし、Google翻訳もGoogle翻訳で日本語が崩壊しているし、けっきょく、はっきりしたことがよくわからない。
 この歌についても、

 ・なんか、左派の政党の集会のために作詞されたらしい
 ・どうも、憲法記念日の集会だったらしい
 ・それは、6月5日のことらしい

 という、3点だけがやけにはっきりと印象に残ってました。
 だから口ずさみながらときどき、

 左派ってことは社会主義だから、赤い旗いっぱい立てた新緑の広場で、労働者風のおっちゃんたちがやまもり集まって、全員で肩組んで、「ぬ、りゅっさろー いら~んで♪」って、大きな声でウキウキのノリノリで歌ってて、で、歌い終わったら「団結がんばろー!」って、デンマーク語でやってた……なーんてね……まさかね。

 ……って、よくわかんない妄想があたまをよぎったりするわけで。
 それにこれではもはや政治的な集会ではなくって、集団ピクニックじゃないですか。楽しすぎます。私もまぜてくれ。
 なので、このへんのいきさつをもう少しきちんと知りたい、というのは長年(っていっても、5年ていど)の願望でした。

 

 だけど、ネット社会って、すごいですね。
 おばちゃんが田舎からタブレットあやつって、四苦八苦しながらでもニールセンについて調べることができている、ってだけでも、20年前には考えられませんでした。なのにですね、なんと、まさに昨日、いや、この部分を書いてた昨日にとっては今日だった6月5日、この日はほんとにデンマークの憲法記念日だった、ということが、わかってしまいました。

 まさか、ここ、noteで、って思いです。
 そして実は、これを見て、「いつかくの?いままでしょッ!」といそいそとこの記事をかきはじめました。

 こんなふうに「デンマークの憲法記念日は6月5日」とはっきりとわかると、Google翻訳の謎の翻訳やデンマーク語の本文も、もうちょっとのみこみやすくなるのが不思議です。

 この王立図書館の記述↓によると……また、ø が文字化けしてるけど……

 作詞された集会は1892年のことで、ニールセンがメロディをつけたのは1921年。↑の資料には「28年」のタイムラグがあったとされてますが、びみょうに数字が合わないのは、月の単位まできちんと計算しているからでしょうか。
 政治的にどうこう、ではなく、いい詩だからもったいないから歌にした、ということで間違いなさそうです。実際、歌詞も政治的なにおいはないし、「都市をのがれて、田舎にいって、心身ともに自由になろう!」というのが中心的なメッセージのようです。

 ということで、「この歌を歌いながらみんなで楽しく歌ごえ集会してた」っていうのは、妄想にすぎなかった、ということがあきらかになってしまいました。
 けっこうお気に入りの妄想だっただけに、ちょっとだけ残念です。

 

 5月の末あたりから、日本でも、「まだ明るいから大丈夫とおもっていたら、とっくに6時すぎてた!」とか「いつになったら日没くるんだ?」ってくらい、日が長くなってますが、緯度の高いデンマークでは、もう、もっとずっと夜が明るい日が続いてるんでしょうね。
 この、6月でないと味わえない太陽の明るさと気分の高揚と、緑がもりもりになって山がブロッコリーになる感じが、メロディで的確にとらえられていて、いまも、ちらっと窓の外の緑を目にしては、ふんふんふ~ん♪、と歌ってます。

 

・◇・◇・◇・

 

 さてさて。
 4月から5月にかけて、この2ヶ月きっかり、呼吸器の謎の病気で寝込んでいたのですが、この間、

 ニールセンの歌が体のことを教えてくれる

 という、不思議現象が起こってました。

 病気のそもそもは、4月のしょっぱなに、微熱が出てしんどくて体が動かなくなる、という風邪的な症状から始まったのですが、週があけたら、のどから鼻から気管からが異様に乾燥して、しまいには、呼吸するたびに肺がつらい、という、いままで経験したことのない状態になっていました。
 もちろん、加湿器もかけたし、マスクも濡らして、しかも二重にまでしました。でも、だめ。日に日に悪くなっていって、適度に湿度管理された人工呼吸機につながれたい……と思うまでになってしまいました。
 しかもちょうど、全国で新型コロナ感染者が増加して、全国民が志村けんさんの死に衝撃を受け、「緊急事態宣言は!?」とやきもきしてたような頃です。ましてやヨーロッパからは悲惨なニュースしか届かないし。
 だから、病院にいくのも勇気がいる状況でした……自分がそうだったらどうしよう、もしくは、拾って帰ってきてしまうかもしれない、って。
 でも、家で寝ててもらちがあかないので、思いきって病院にいきました。始めて担当してもらう先生だったんですが、漢方を処方してもらいました。

 で、それが効きました。

 

 飲みはじめて数日した夜のこと。
 肺が内側からが「ばふッ!」と爆発したような感じがして、びっくりして目が覚めました。
 その瞬間、頭のなかにこの歌が聞こえてきました。

 まさにこの動画とおりに歌が鳴りだしたんですよねー。

 なんかよくわかんないんだけど、とにかく肺が喜んでるらしい(デンマーク語でも、glad は「うれしい」)ということと、外から加湿できないなら、内から加湿する、みたいな感じで、肺胞のひとつひとつが潤ってるのが感じられて、しかも、吐き出す息が温かく湿っている。その湿りが、乾燥した気管やのどを潤していく……。
 漢方すごい!肺自体を強くして中から潤う作戦なんや!とびっくりしつつ、寝汗でひどい有り様のパジャマを着替えでひとねいりしたら、こんど目が覚めたら、

 そ、そうか……歌でいっぱいなんやな、おまえ……(fuld af sang は、そのまんま full of song)と、やはり寝汗でべちゃべちゃのパジャマを着替えて、もうひとねいり。

 そしたら、また目覚めと同時に歌が聞こえる。頭のなかで。

 ああ、なるほど……いま、5月、6月の緑のように、肺がみずから潤うちからを発揮しとるんやな、と納得いきました。

 以後、

薬のむ→寝る→目が覚めると Nu lyser løv i lunde が聞こえる→肺が頑張って潤ってくれてる、とわかる

 というのが毎日でした。入浴も呼吸器が潤うための大事なチャンスだったので、湯船にゆったりつかっていると自然と Nu lyser løv i lunde が鳴りだして、「ちゃんと治ってくれてるやん。ご機嫌そうでよかったぁ!」とほっとしてました。
 連休あけたあたりから、症状の深刻さがとれてきたので、いつのまにか聞こえなくなっていましたが、先週だったか、ぶり返してヤバかったときは、やはり、久しぶりに頭のなかで鳴りだしました。
 もう、 Nu lyser løv i lunde が聞こえるたびに、いま潤いがもどって嬉しいんやな、ちゃんと頑張ってくれてるんやな、肺さん、ありがとう、てなかんじでした。

 で、いま現在。
 梅雨入りして湿度が高いので楽、というのと同時に、8割がた回復しているようです。だからあえて、Nu lyser løv i lunde は必要ない、ということなのか、頭のなかはしんとしてます。

 

・◇・◇・◇・

 

 さて。
 こういう経験はですね。

 脳や身体が、 Nu lyser løv i lunde という歌をどんな風にとらえているのか?どう感じているのか?

 ということを知るチャンスだと思うんですよね。
 「自分」というものを経由せずに心身がメロディからダイレクトに感受しているものを知る。そうすることにより、ニールセンがこの歌のメロディに見ていた映像や心身から湧いていたものと直接つながることが出来るはずだ、と私は考えています。
 歌詞は、メロディだけではつかみきれない映像を明確化する補助線だと思っています。

 今回の経験から理解したことは、この Nu lyser løv i lunde のメロディがあらわしているものは3つある、ということ。

 ひとつは、木々の緑が盛んになっていく、ブロッコリーのような《内側からのエネルギーの爆発》
 もうひとつは、したたるような緑の《潤い》
 そして、新緑や夏至を目指す日の長さが象徴する《生命の再生》

 だからこそからだは、乾燥に痛めつけられながらも肺が生命力を発揮していることを「自分」に伝えるために、この歌を選んだのではないかと思います。もしくは、肺が頑張っているときの生命の波動のようなものと、このメロディのもつ波動のようなものが一致していた、ということなのだと思います。

 おそらくは、

 肺自体がBGMとしてこの歌を欲し、歌っていたから、
 頭のなかに鳴っていたし聞こえた

 そういうことなのだとおもいます。

 

 また、Nu lyser løv i lunde は梅雨時限定ソングで、毎年、梅雨が明けるとあまり興味がなくなってしまうのですが、それもこれも、「《潤い》を表現しているメロディだから」ということがわかると納得いきます。
 それに、梅雨の完全に明けた8月は、草木が上向きの矢印で伸びていく《生命の再生》の時期ではありません。緑の盛りであり、頂点であり、夏至を過ぎて太陽が衰えを示し始める時期です。
 メロディが示すものと季節とのズレを、からだはちゃんとわかっていて、梅雨が終わると自然に歌いたくなくなるようです。つまり、

 ニールセンは、「旬」を歌として正確にメロディ化している

 わけです。また、正確にメロディ化できるくらい、自然の運行を的確にとらえていた、ことも推察されます。
 だからこそ、

 みずから潤い、治癒しようとする肺の活動は、あたかも梅雨時の植物のみずみずしい生命活動のようだ

 と、身体は比喩し、みずから Nu lyser løv i lunde をうたったのだと思います。

 

 ちょっと横道にそれますが、ニールセンの自然を見る目の的確さがわかる歌がほかにもあります。
 これも、nu (= now)からはじまってますが……。
 våren は「春」なので、nu ということばの雰囲気をだしつつ、あえて日本語にすると、

 「あっ!ここにも春が来てる!?」
 
 になろうかと。
 もしくはかっこよく古文で「春まさに此処に到りけり」みたいな感じでしょうか……現代語は完了形がないので不便です。で、
 
 この春が来たと気付いた瞬間は、春のいつ頃なんだろうか?
 
 というのが、今年の春の大問題だったわけでして。
 この記事↓からはじまる「いつから春になるか?」シリーズは、この Nu er da våren kommen が「あっ……春だ!」と歌いはじめられた瞬間を探るためのものだったんですね。実は。
 また、この歌はニールセンがすこしだけ歌詞をいじっているので、ニールセンが見ていた映像を想像しやすいんです。
 でも、くわしいことはまたいつか……病気になってなかったら書けてなのになぁ……くすん。

  

 ……まあ、こんなようなことを書いてると、ふつうのひとには、変人のたわごとにしかきこえないし、この人こわい、と思われること間違いないとおもいますが、だけど、ニールセンの書く音楽は、どの作曲家の音楽とも違い、身体と直にがっちり結び付いているし、心身に食い込んできます。たとえるなら、

 電子レンジの中では、
 マイクロ波の当たった水分子は震動せざるをえない

 というのがいちばんしっくりきます。

 つまり、ニールセンの歌に接することは、私たちが電子レンジのなかの食べ物になるも同然、ってことです。聞けば歌いたくなるし、歌えば動きたくなるし、動くと熱が発生して、身のうちからおのずと生きる希望がわいてくる……だって、「動く」と「熱」と「生きる」はおなじ意味ですから。
 ニールセンの歌は細胞レベルで宿っている、生物としてのそもそもの生命力をゆさぶる、

 「生きるちから再生専用電子レンジ」

 と例えるのがいちばんしっくりくるかもしれません。

 人間は「自殺」という、おおよそ生命体としてはありえない謎の行動をとる生き物です。ですが、脳が「死にたい」と考えていようがどうしようが、細胞のひとつひとつはそもそも「生命を維持する」ようにできています。
 はっきりいって、私たちの身体を構成する細胞たちにとっちゃあ、「自殺したい?そんなん知らんがな!」ですよ。
 ニールセンの歌は脳のなかの「自分」という機能がうみだす「くよくよ」や「うじうじ」を飛び越えて、生きてるからだに働きかけてきます。だから、からだがそもそも備えている「生きたい」という願望をゆさぶって、

「死にたい」というのは脳のなかの「自分」が生み出したまぼろし

 と、「自分」を生命体としてのそもそもに立ち返らせるちからがあります。

 

 いい機会なので、ニールセンの電子レンジ的なちからを遺憾なく発揮させているアルバムを紹介したいと思います。

 ZenbiaNu lyser løv i lunde はこんな感じ。

 病気で寝込んでいるあいだ、新型コロナをめぐる社会の情勢は物騒だし、自分の容態も意味不明だし、症状はしんどくてたまらないし、病名不明なのでどうなおっていったらいいかわからない、という状態でした。そのうえ寝汗で1~2時間に1回は目が覚めて、着替えて、まともに睡眠がとれませんでした。
 だから、体は疲労困憊しているし、胃腸は「生命維持のために食べる」ということすら拒否的で、メンタルのほうもずたぼろでした。

 もうつねに、「死にたい」ということばが頭のなかにちらついていました。
 自分でもわらったのが、「新型コロナで死ぬかもしれない、という恐怖から逃れるために自殺する人、おるかもしれん……」というアイデアですね。他人ごとのように考えてますが、「この容態でコロナ来る→死ぬ→こわい」という不安は常にありました。

 そんな精神状態のときにこのアルバムを聴いて、「いいから、生きていなさい」と、根本的なところからメンタルを引っ張り起こされました。
 なんというか、いやおうなく「生きていたい」という気持ちを引きずり出された、というか、みずから「日の当たるところに出てきたい」という気持ちにさせるような、絶妙な楽曲配列になっています。「あの曲のつぎにこの曲かくるとか、ズルすぎる!いやでも元気になるじゃん!」と、いっしょに歌いながら大泣きしまくってました。まるで、

 スープのつぎにはお粥、
 お粥のつぎには柔らかく炊いたご飯。
 最後にはふつうのご飯が食べられるように、ひとつづつ段階をふもうね。

 とでもいうような。

 このアルバムをつくった Zenobia というグループは、

 ニールセンとは、「ともに生きよう」と歌いながら手をひっぱる人である

 という、ニールセンの音楽の本質の部分と、それぞれの歌が示している映像の核心をくるいなく理解しているのだと思います。でなければ、「この歌のつぎにはあの歌を聞きたい。そうすればまちがいなく元気になれる」というからだのそこからのリクエストにこたえられるこの楽曲配列は、実現できないはずです。

 クラシックはもとより、デンマークでは多様なジャンルの人たちがニールセンの音楽に取り組んでいます。だけど、本質的なところをかっちりと押さえている人たちばかりではありません。メロディだけ借りて、自分の表現を押し付けて、ニールセンがニールセンたる本質が理解できてないものもなかにはあります。
 逆に、かっちりと押さえている人たちは、メロディラインが作画崩壊しているくらい崩れていても、ニールセンはニールセンである、とはっきり伝わってきます。その音楽には、人を生かすちからがあります。

 Zenobia のアルバムは、そのなかでもとくに「人を生かすちから」にすぐれています。

 ところで、ジャケットからして作画崩壊してるけど、聴くとすごいのはこれ!
 Zenobia のおなじ曲と聴き比べると、メロディの崩壊っぷりがよくわかると思います。
 はじめはビビりましたが、スルメとおなじで、聴けば聴くほど奥深さがわかります。


 あ。
 そんなこといわれてもデンマーク語わからんもん……とかとか心配しなくて大丈夫です。
 私も、いまだに皆目わかりません。タイトルはなんとか理解してますが、よほど決意しないと、本文まではなかなか手がでないです。
 それでも全然大丈夫です。ニールセンは、おそらくメロディで映像を表現しているので、言語なんて関係なく「理解」が直接脳にとびこんできます。

 

・◇・◇・◇・

 

 病気で2ヶ月も寝込んで、はっきりいって2ヶ月ぶん人生を損した気分ですが(しかも、いまだに回復しきってないし!)、「死にたい」とおもうくらい弱らなかったら、Zenobia のアルバムがどれほどすぐれているかにもきがつかなかったし、Nu lyser løv i lunde という歌についても深く考えられなかったわけで。

 もう二度と、おなじ症状になりたくないですが、完全にマイナスではないし、それ以上の収穫があったのは、ちょびっとだラッキーだったのかもしれません。
 損して得取れ、が最近の人生のモットーです。

 そうやって、前をむいて生きていけばいい、というのはニールセンの教えてくれたことでもあります。

 

 

 

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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。