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【vol. 4】政治理論の学びから「真の対話」と「学び」について、ゆる〜く考えてみた

先学期、政治理論の講義で、J. Tullyの“Deparochializing Political Theory and Beyond”を読んだ。政治理論の脱西洋中心主義に関するお話。

偽の対話ではなく、真の対話の実現に必要なことって何だろう?そんなことをTullyの議論を通して考えた。

政治学の一つひとつの理論を自分が置かれている文脈に置き換えて考えることが、最近堪らなく楽しい。
だから、その日に習ったことを講義後にひとり思い返して脳味噌の筋トレをするんだけれど、それが最近少しずつ習慣化されてきた。

知見が広がるとき、如何にして自分がドクサから解放されていくのか。過去の自分の思考を批判することでその転換をちょこっと見てみたいと思う。

Tullyの議論の中で興味を持った箇所は、真の対話を実現するために必要とされる nonattachment の部分。この nonattachment と呼ばれる要素は、大学内外かかわらず、異なる他者との対話において必要とされるべきもの。自分の世界観に固執せず、常に批判の眼差しを自分自身に向け続けるために不可欠な要素だ。

その思考をベースとし、大学での学びを学外に発信しようとすると、私はある種の恐怖心を抱く。たとえ近しいコミュニティであったとしても、自分の学びやそれに対する自身の思考を安易に大学の外に持ち出すことを躊躇してしまう。大学は、当たり前に存在している「社会」から一歩離れて、それを観察対象として客観視できる唯一無二の場所であると思う。だが、社会を俯瞰視して、人々が肯定している「当たり前」にメスを入れると、分断が生じるような気がする。善悪を問うているのではなく、ただ特定の問題における議論を展開して、一緒に考えを深めていくことを望んでいるだけなのに、何故か人々は「味方ー敵」という二項対立の図式を作りたがる。学び得た知識やそこから派生した思考は独り占めされることなく、どんな時であっても流動的であって欲しいと自分は願うから、外に発信しようと心掛けるが、周囲の反応やらを見ていると、対話の種を撒くことを躊躇って、萎縮してしまう。

そんなことをTullyの文章を読みながらグルグルと考えた。

Tullyの議論の中で、openness (開かれた態度) receptivity (他者の意見を受け容れる姿勢) という話がなされたとき、これらの考えを前述した自身の悩みにアプライしてみた。恐らく私は、大学外の他者と対話をする際、相手の議論の裏に隠されている背景を探り出す作業を欠き、相手の議論に沿って自己と対峙することを十分にしていなかったのだと思う。

そう思った時、伝統に由来する見方を他者に投影することで、自らが偽の対話を生み出す要因を作り出していたのではないかと自分自身に懐疑の念を抱いた。

ほんのちょっと前までの私は、上述のように「人々は『味方ー敵』という二項対立の図式を作りたがる」という、恰も自分以外の他者に批判の目を向けるかのような表現をしていた。けれど、そのような構図を対話の中から無意識的に作り出していたのは、自分自身だったのだろう…。Tullyの議論と講義を通して、そんなことを考えては、自らを省みた秋学期でした。

「『学び』は常に自己との対峙を繰り返す作業」

遠いどこかで起こっていることを学んでいるようで、実は他でもない自分について学んでいるんだと思う。

大学での学びは、すこぶる楽しい。

思う存分、好きなだけ学びに浸れる環境にいられることに感謝です。初心忘れるべからず。

日々、感謝の気持ちを忘れず、
来年も愛する学舎で知のデザインに努めます。

いつかそれをどこかで還元できるように。

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