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さよなら、カロリー信仰

「で、これって何kcalなんだろ?」

深夜のコンビニ、スイーツ売り場の前で物色するわたし。夕食はしっかり食べたのに、食後に甘いものが欲しくなり近所のコンビニまで散歩に来た。家を出たときはベイクドチーズケーキか生クリームの載ったパフェか、何かコッテリしたものを頭に浮かべながらコンビニまで来たのだけど、いざコンビニの棚の前に来て少し気分が萎えていくのが分かる。

最初に欲していたチーズケーキを手に取り、まず見るのは裏側に記載されている栄養成分表。そう、知りたいのはこのチーズケーキは何kcalなのか、ということ。掌におさまるほどの、シンプルで小さなチーズケーキだけど表記は300kcalをゆうに超えている。360kcal……さっきの夕食で食べたごはんの軽く2杯分かとわたしの脳内で早々に換算され、小さな溜め息と共に棚にチーズケーキを戻す。続いて、生クリームやムースがたっぷり載ったプリンアラモードのカップに目をつける。同様に裏側を見ると、先ほどのチーズケーキよりさらに高い400kcal超という表記を見て、目を瞠りながら棚に戻す。これじゃ、さっきわたしのお皿だけ減らした唐揚げの意味がなくなるではないか、と。

中学校までは毎年2~3㎝伸びていた身長が止まった16歳のころ、わたしは急に太りだした。今思えば当たり前のこと、それまでは成長期でお腹が空いたら空いたぶんだけ、何なら自分のキャパを超えるほど食べても、縦に伸びるためのエネルギーとして体が使い切れていた。でも背が伸びきり、上に伸びるエネルギーが必要なくなったのに食べる習慣だけは残ったおかげで、その余剰エネルギーは横にいかざるを得なくなった。思春期のストレスと時間的余裕も相まって、体重はみるみる増えて見事なぽっちゃり体型になった。

「超」ミニスカートが流行した女子高生時代、細い脚にルーズソックスが定番の時代だった。自分のぽっちゃり体型を物ともせず、周りの友人を見倣ってミニスカートとルーズソックスで毎日学校に行くわたし。登校時、そんなわたしの後ろ姿を見て思わず母が「デブス……」と呟いた。

愛しの我が娘に向かって「デブス」とは何ごとだ。怒りと共にふと自分の姿を鏡で見たら、母の言葉に反論できない自分の姿が映し出されていた。
そこから、わたしのダイエットの日々が始まった。

リンゴダイエット、ヨーグルトダイエット、当時流行っていた「〇〇だけダイエット」も山ほどトライしたし、後になってみたら出所の正偽のほども分からない「国立病院ダイエット」なんてものに手をだして2週間苦しんだこともある。人生の中でもはじめて美容に意識が向き始めるお年ごろ、時間とエネルギーは有り余っているからとにかく様々なダイエット情報を集めては試し、ときに挫折しながら数ヵ月かけて10㎏以上の減量に成功し、わたしはぽっちゃりから普通の体型になった。

好きなものを好きなように食べられない、食いしん坊のわたしにはダイエット中それが一番辛かった。だから、絶対にもうリバウンドしたくない。金輪際こんな風にダイエットしなくても済むように常日頃から気を付ける、という習慣が否応なしに出来た。その習慣が、カロリー制限だった。振り返ればその時代、社会全体がカロリー制限を全面に推していたような気もする。現在の糖質制限の風潮のように、甘いのにカロリー0の甘味料だとか、カロリーは低いけど満足感のある蒟蒻ゼリーだとか。日々晒されるそんなCMを見ていたら、カロリーはわたしの中で絶対的な敵になり、リバウンドしないためには極力減らすべきものになった。カロリーブックを手に、食卓にあがるごはんの総カロリーをざっと計算する。お腹の空き具合や、自分の気分に合わせて食べるのではない。本に目安として記載されている、自分の年代と性別に合った摂取カロリーに見合うかどうか、が日々の食べるものを選ぶ基準。日々そんな目線で食べる物、食べる量を決めるのが、10代後半からもう半世紀以上、わたしの中で続いてきた。

そうして冒頭のように、コンビニでスイーツひとつ選ぶのにも時間とエネルギーを要して仕方なくなった。自分の気分に沿わず、表記されているカロリーの数値で食べ物を選んでいるから至極当然の結果。そうしてチーズケーキもプリンアラモードも諦めて、牛乳寒天でお茶を濁すようなデザートを食べたりする。そうするとどこか気持ちが満たされず、チーズケーキとのカロリー差分は大丈夫、とチョコレートに手を出して、意味不明な罪悪感に苛まれたりする。そうなったらもうカオス、でもそんなミスを数年に渡り山ほど積み上げてきた。そうして最近になって、ほとほと疲れてしまった。

健やかな身体を維持するために、心身が欲しているものを食べる。
それが本来の「食べる」ことの根源であり、選択基準のはず。でも、思春期のダイエットから始まった歪んだ食選択の基準のせいで、わたしはいかに「栄養を摂らずして量を食べるか」ばかりを考えてきた。食材にも作り手にも、なんと失礼な話かと、今になって猛省するのだけど。

本当に自分が欲しいものは、必要十分な量で満足できるもの。食べ過ぎたら胃もたれといった体からのサインも来ることだし、数値化された情報や、メディアから発信される起源不明な情報に流されることなく、自分の気持ちと体に問いながら食べものを選ぶ。これまでの数10年続けてきた歪な習慣を手放して新たな食の選択基準に変えるべく、思考パターンを変え始めた。

そこで気づいたのは、少しふっくらした自分をも愛おしいと思えること。以前は少しでも太るとそんな自分に嫌悪感すら感じたのが、食べたもの、食べること、すべての行動基準が自分になったら、その結果も素直に受け止められるようになった。

生きることは食べること。食べることは生きること。
であれば、食べることを自分ごとにすることは、自分の生き方を自分ごとにすることなのかもしれない。そう、今わたしは感じている。

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