敵か? 味方か?

前回は「身内意識」について書きましたが私の感覚を申せば単純です。「身内 = 味方」となる。単純なにしておけばイザという緊急事態のときに考えなくて済むから迷わないでしょう?一瞬に判断しなければならないのにどうしようどうしようって考えあぐねてしまって結局判断できない人は私たちの周りに多いかも知れませんね。私のこの法は便利で役に立つのです。

私は身内を殺さない。身内は味方だし、私は味方を殺さない。じつに単純な判断ですから迷うことはない。それが私の身内でなければイザという時には殺します。結局私は即決即断です。身内でないヤツ、敵は考えるまでもなく殺します。紫蘇の葉がかじられたら夜回りして近くにいる敵を殺しつづけます。そいつは怪しいヤツですから少しも考えることなく殺すのみです。

数ヶ月前まで私はヤスデを身内と思なかった。ヤスデ‥大阪でゲジゲジと呼ばれる、あの多足類のヤスデ。私の身内と知ってからは殺しませんよ。野菜栽培に力を貸してくれるヤスデなのにどうして私が敵視できるでしょう。あなたは「害悪はいけない」とお想いかもしれませんね?害悪を為すことでより親しくなることはあるし、だから私は「害悪=駄目」と捉えない。

私の場合‥必要があって、あるいは已む得ずのことはあっても、辛い目に遭わせたくて害悪を行っている訳ではありません。もちろん、これは私の理屈であればあなたには受入れることは到底できないかも知れません。だからこそ私は身内意識を重視することになる。基本、私は身内への害悪はしない。ここまでお読みになったあなたはモシカ私を危険視なさいますか?|д゚)

ここまでの私の文面から、ツイッター社なら私を危険視しますよ。危険視する根拠は文化の違いにあると私は考えている。身元が分らない人間を敵と見なす文化にツイッターは毒されていると私は捉えているのです。それで私の身元を探ろうとナリフリ構わずに探ろうとして恥じない姿勢が窺える。勿論私は違法な行為をしない故にツイッターは表立った動きを出来ない。

ツイッターからの過去の情報漏れに対するお詫びの姿勢が世界中のあなたの下へ届いていたら私はツイッターを信頼するのですけどね、「済まんのう」の公式表明しか発せられてないと私は想っていて、それで私はツイッターに信頼を寄せられないのです。それはそれとして私の文化はツイッターを敵と見なさない。人間を敵視する感覚は私のなかにない。そういう事です。

人間を敵と見なす思想‥敷地内に入った丸腰の日本人の少年を射殺した事件が過去にありましたね。怪しい人間を殺しても罰せられない法が現存している文化がある。己の敷地内に入ったから射殺したという言い分にどんな正当性があるだろうか?国法が正当性の根拠になるならナチスは法に反していないじゃないか。いやいや、ツイッターに関してはココまでにしますね。

「私は身内への害悪はしない」と申しましたが、私が言う身内はツイッター社の暗い人間も全て含むことはお分かりになったと思います。即ち、どんな姑息な人間でも私の身内と見なしますし、私は人間を敵視しない。私のこの言い分を信じるとき、あなたは私を危険視することは無くなります。ナメクジや団子虫は殺しても人間のあなたに私は殺意を抱くことはない。

そう申しましても好感を持てるかと云えば「否」となる場合は起りますし、危険を感じるお方には近づきたくない気持ちも捨てることは出来そうにありません。私に害悪を働いて平然としているお方を私が好きになれる訳がないこと、あなたも同意なさるのではないでしょうか。箱庭療法とはよく言ったモノと想う。箱庭の水に世界の実像が映って見えるようです。( `ー´)ノ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?