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【ネタバレあり】『哀れなるものたち』がすごかった。

映画『哀れなるものたち』を観た。

信頼している人から「観てほしい」と言われ,何の情報も持たないまま「観てみる」と言い,予約し,そんなことをしているうちにアカデミー賞11部門にノミネートされ,それでも公式サイトも見ないまま今日映画を観てきた。

未だにネットから情報を得るわけでもなく,観たものを観たまま感じたまま書くことになる。監督もわかっていない。エマ・ストーンしか知らない。

ここからはネタバレを含むうえに,記憶もあいまいなままに覚えている範囲で書く。さらに仕事の疲れもあって冒頭少しうとうとしていたので,事実と違うところがあってもご容赦頂きたい。


いきなり観たあとの感想だが,観終わった直後は「無」という感じで,何とも言えない脱力感に包まれていた。

感じたことは多いにせよ,言葉にならない感じであった。
帰り道にそれについて考えていて,残しておこうと思って書いている。


何せ公式サイトも見ていないので個人的な見解だが,

「脳は世界を分け,包摂して進歩していく」

ということが主題だったのではないかと思う。

私の言葉で言えば,「一元から二元へ。そしてワンネスへ」というのがしっくりくる。

ここでいう「一元」とは,何の分離もない,すべてが一体となった状態である。
また,「二元」は,一元から分かれて分離が始まり,多様性が生まれた状態を指す。私たちが生きている世界は様々な異なるもので構成されているが,まさにその状態。現実と言ってもいい。
そして「ワンネス」は,分離しながらも,すべてがつながっている状態を指す。「一元」と混同しやすいが,「分離はしている」という点で異なると理解してもらえれば幸いである。

キーワードとしては,diversity(多様性)とinclusion(包摂性),そしてadavance(進歩)だろうか。

いずれも現代のキーワードでもある。
Disneyはこれらをわかりやすい形で部分的に描いてくれている。
一方で,本作品はそれこそinclusive(包摂的)に現代のキーワードを整理して伝えてくれている気がした。


ロンドン ―幼児の脳

物語はエマ・ストーン演じる主人公のベラの一元的な世界観を映すことから始まる。舞台はロンドン。

序幕は,ベラが閉じられた(exclusive⇔inclusive)世界に引きこもる(retreat⇔advance)ことを余儀なくされている状態から始まる。

ベラは,子を身ごもりながらも自殺した母親の身体に,子の脳だけを移植された存在である。
自殺した母体から子を取り出し,母の身体に子の脳だけを移植した。

そうすると身体は大人の女性だが,脳は未熟なため,赤ん坊のふるまいをする大人の女性の姿が映し出される。

この状態で外の世界には出せないため,脳を移植したGODと呼ばれる外科医の元で育てられる。外には一切出されない。
GODと呼ばれる所以は,新たな存在を生み出した創造主という意味合いからきているのだと思う。

そこで徐々にベラは言葉や身体の使い方を身につけていく。それでもこの時点ではまだまだ幼児的なふるまいのまま。

親の庇護の元で育つ赤ん坊の脳を描いている。身体は大人だが。

自分の身体について知っていく子供さながらに,やがて性の悦びも覚えていく。この時点ではまだ男は知らない。

GODの助手的存在であるマックスと婚約するのもこの頃だ。
子ども時代によくある,「大きくなったら結婚しようね」というような事なのかもしれない。純愛への伏線が張られていたのだろうか。

そこに外部因子である,遊び人的役割のダンカンが現れ,ベラを外に連れ出す。ただしマックスとは婚約したまま。一時的に外の世界に出ていくことになる。外の世界への好奇心が勝ったということなのだろうと思う。

ここまではモノクロで描かれている。これは外の世界を知らないベラの,色の世界を描いているのだと思う。「一元」と表現したのもここからきている。

リスボン,船上 ―子供の脳 成長期

遊び人ダンカンに連れられてリスボンに向かう。ここからカラーとなり,ベラの世界が色づき始める。

まだベラの脳は子どもであり,食欲や性欲などに忠実に,ダンカンとの旅を楽しむ。動物的な脳を描いている。


場面は船上へ(正直,リスボンが先だったが船上が上だったか覚えていない)。豪華客船で何日もの航海の場面が描かれる。本格的に外の広い世界へと旅立っていくということなのだと思う。

船で老女と,皮肉屋の青年と出会い,学問的な「知識」を得るようになる。
また,哲学などを学び,「知恵」も得る。皮肉などの人間の機微を知るようになるのもこの頃である。

それにより,段々とそれまでの人間としての根源的欲求を超えて,社会性を身につけていく。
旅の途中では格差も目の当たりにし,ダンカンがカジノで儲けたお金を貧しい人々に寄付するなど,外の世界への関心と貢献の意識を高めていく。
一方で,その気持ちだけが先行し,騙されてお金は貧しい人々へ届かないのだが。社会の厳しさのようなものはまだわかっていない。

パリ ―大人の脳 社会性の開花

そこで失ったお金が原因で,船に乗る費用が払えなくなり,一文無しで場面はパリに移る。

そこでは生きるためにお金を稼ぐ必要があったが,ベラは娼婦となることで様々な人間と関わるようになる。結果的にこれがベラの関わる世界を広げていくこととなった。

それまでダンカン以外の男は知らなかったが,別の様々な人間を知り,人間の奥深さを知るようになる。性別を超えた肉体関係も経験していく。

その過程でお金も得たベラは,解剖学にも関心を示すようになる。

再びロンドン ―自立

そんな中,GODの訃報を手紙で知らされ,故郷のロンドンに帰る。

帰ってみると,GODは実際には瀕死だが生きており,自分の境遇を知らされることになる。

母親の身体に脳だけ移植されたことにベラはショックを受けるが,隠していたことに憤りつつも,真実を知らせてくれたことで許す。
ここは真実を直視し,受け入れることが,知らないままでいることよりも勝る精神的発達を描いているのだとも感じた。誠実さの概念ともつながってくると思う。真実を知ったベラは,医者になることを決意する。

また,ベラがいなくなった寂しさから創られた,もう一人の脳移植された存在を知り,いたずらに命を創ったことでGODを非難する。ここから,ベラに倫理的価値観が芽生えていることも確認できる。

母の夫の邸宅 ―子から親へ

その後,誠実さを持つマックスと結ばれることになる。
ここでエンディングなら,純愛を描いたとして解釈することもできるが,結婚式にベラの母親の夫が「ちょっと待った!」的に現れる。

何せ見た目が自殺した妻と同じなので(そのいきさつは映画を観てほしい),取り戻しにやってきたのだ。

ベラは自分の母のことを知りたいという気持ちもあって,その夫についていく選択をする。


その夫は城のような邸宅に住んでおり,ベラを独り占めしようとまた閉じ込める。外の世界に出ていたベラは,再びexclusive(排他的)な世界に引き戻される。

その邸宅の使用人たちは,ベラに冷たい。
セリフやふるまいから,夫とベラの母親は,使用人たちを虐げていたようだ。

しかし,外界を知り,人間の機微にも触れ,社会性が育つほどに精神的に発達したベラは,夫の未熟な態度を受け入れられない。

セリフから,母親は身ごもったときに,お腹の子を「モンスター」と表現したということから,母親も自分の未熟さを自覚していたのかもしれない。
それゆえに自殺に至ったのかもしれない。


その夫の未熟さと向き合い,ベラは夫を罰する。
夫とのもみ合いから,夫が持っていた銃を奪う際に発砲し,銃弾は夫の足を撃った。

しかし,ベラは負傷した夫を婚約者の元へ連れていき,手術により命を救う。
子どものようなふるまいをしていた夫を罰しはするが,「進歩させる」という言葉とともに命を助けたということで,ベラの精神は親の域に達したのだと察することができる。

ラスト ―創造主へ 包摂

ラストシーンでは,庭でジンを飲むベラや婚約者,使用人の平穏に過ごす姿が映される。そこには,作中に何度か出ていた,GODが創ったであろう動物同士がツギハギされたキメラのような動物たちもいる。
母の夫もそこにいるが,ヤギの脳を移植されたようで,鳴き声をあげながら葉っぱを食べている。

ベラは医師になるための試験を控えているようだが,解剖にはとても詳しくなっているようだ。GODという,ある意味で親の意志を受け継いでいる。
「解剖」が「分離」とつながり,多様性へとつながっていく。

前向きな場面として描かれていることや,「進歩」の結果として母親の夫がヤギとなっていることから,「世界を自由に掛け合わせていくこと」が「創造」として解釈されていることが伺える。(これは作中でも描かれていた「皮肉」なのかもしれない。字幕で出た「進歩」にはカギカッコがついていた)

こういった異なるものの「掛け合わせ」の結果,多様性が生まれ,それをまた社会は包摂していく。それが映画で何度か出てくる「より良い世界」に近づいている。ラストシーンで,白人と黒人,男と女,様々な身分,動植物,様々な色など,全体が共存していることから,そう解釈できる。


以上から,脳の発達を軸に,一元→二元→ワンネスと精神的な発達を描いた作品なのではないかと思った次第である。

また,作品の多くの場面で不協和音が流れているが,これも,相容れないものも共存できるということを示しているのかもしれない。

話はそれるが,少し前に『ボーはおそれている』を観た。

この作品は,ボーの頭の中をずっと描いていると解釈した。
いわばボーの一元的な宇宙を描いた作品で,母子関係に関する,いわば妄想をずっと描いている。

母親から自由になりたいという反発心をもって葛藤するが,結局は従属してしまう絶望感を描いた作品であると感じた。

ひたすら一元的に描くというのは私にとって斬新で,新鮮な体験であった。

それと比較すると,『哀れなるものたち』は,宇宙をより立体的に描いており,エンターテインメントとして受け入れられやすいものだと思う。

タイトルの『哀れなるものたち(Poor Things)』は,誰の視点から「哀れ」であるのかと考えると,創造主の立場からだろうと思う。

分離と包摂を繰り返し,そのサイクルからは決して抜け出せない存在への皮肉が込められているような気もした。

最後に ―考察の下敷き

最後に,冒頭で述べた,観終わった後の「無」の感覚は,男女や,貧富,単一と多様など,対となるものが掛け合わされたものをどう整理して良いかという,ある意味「立往生(stuck)」のような状態だったのだと理解でき,ここに書くことですっきりした。

「円満」という言葉はポジティブなイメージを持っていたり,「和」は「輪」と音が同じである。
その形である「円」は,「完全」のイメージと結びつく。

perfectのper-は「完全」の意味であるし,パルフェ(パフェ)もそのような意味のデザートである。

その「円」の完全性=一元から,様々な形に分離していく(二元)。
それが多様性を生み出すが,元はすべて円から分かれたものであり,すべてのものはどこか共通性を持つ。
それは感覚的には「似ている」と認識され,分類学に発展していく。

その分類はやがて人間の意志によって体系化され,やがて一つにまとめられる(ワンネス)。

映画について考えながら,人間の営みそのものだなあとも感じる,楽しい一日だった。


的外れな考察かもしれないが,個人的にはとても有意義な時間を過ごせた。ここまで読んでくれた方に,映画を「観てほしい」と言ってくれた方に,また,この作品に関わった方々に感謝をして終わりにしたい。


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