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なんとなく、ロマンチック

「さて、今日で君ともお別れだね」

リビングの椅子に座って、マグカップにミルクティーを注ぎながら男。
「そうね」
身支度を済ませようと、せわしない女。
「こんなに悲しいことはないよ」と男。一度、ゆっくりとミルクティーに口をつけて。
「そうはみえないけど」と女。
「だって、いくら言っても君は行ってしまうんだろう?」
ふふ、と背中越しに女が笑うのを男は見た。
「まだいくらも言ってないし、どこにも行ってないじゃない?あなたは、CDが売れてないからって、ステージがあるのに歌わないの?想像を超える観客があなたを待ってるかもしれないのに」
男は視線を女から外す。
「それって、まだ可能性があるってこと?」
女はそれに応えない。身支度を進めるだけ。
「あのさ、これはあくまでもゲームの一環としてなんだけど」
女は一瞬動きを止める。瞬間、止まった自分に気づき、意識的に手を動かす。
「君と僕にとって、思い出の場所を言い合うゲームでもしないか?最後なんだ、もう君とは会えないわけだし、思い出を聞いておきたい。どうだろう?」
女はちょうど身支度を終える。男は遠い視野で、女が出ていくにはあとはクローゼットにあるキャメルのチェスターコートを着るだけであること、がわかる。
しかし、その意に反して女はキッチンに向かい、男と同じマグカップを取り出して、いつものダークチョコレート入りのコーヒーを注ぐ。
「4年前の大停電」と注ぎながら女。
男の定まらない視線が女に向く。
「初めて会った、高校の放課後」
男は照れた顔を隠すようにティーを飲む。
「ふたつ先の地下鉄」
言いながら、女はマグカップを持ってキッチンテーブルの椅子に座る。
「東京の空港」
男は立ち、ティーを飲みながら女の向かいに座る。

ふたりの中心にある花瓶にはクレマチスが2輪。
女はそばにある小さいジョーロで水を注ぐ。

「動かないエレベーター」

「手作りのブランコ」

「ネオン色に反射する水面」

「オレンジ色の街灯」

「ビーフシチュー」

「シャンパンのロゼ」

「屋根裏」

「このビルの屋上」

「多すぎる枕」

「カーテンの裏側」

「ミルクティー」

「ダークチョコレート」

女はジョーロをテーブルの端に戻す。
どうやら思い出を注ぎ終わったようだ。
そしてふたりは見つめ合う。
「ねえ、わかったわ」と女。
「なにがだい?」と男。
「これって、私たちの毎日のことじゃない?」
不敵な笑みで女は男を見つめる。
「いや、思い出の話さ」
男もまた、不敵に笑う。
「じゃあいいかしら、思いついたの。新しい思い出」
女はふたりの間を指差す。

「クレマチス」

男は一口、ミルクティーを飲んで、目線を一瞬そこにやる。
「この同じマグカップ」

小休止。
どうやらキャメルのチェスターコートは今日はまだクローゼットからでないようだ。





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