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僕と君との

 道ありき 我の先ゆく 花駆ける
 故人の歌をうたう 東風哉こちかな

 桜の季節になると必ず、西行の歌を思い出す。

 仏には桜の花をたてまつれ
 わがのちの世をひととぶらはば

 昔の僕と比べて、今の僕は生きる楽しさを取り戻した気がする。それでも死ぬる権利はまだ僕にあって、いつでも死ねる機会はあるのだが。生きる楽しさを取り戻したと言えど、まだまだあの世の魅力に取り憑かれて、歌をむ。

 散る花は 川を流れてく 
 我は東風に全てをゆだね 身を投ぐ

──あの日、あの時、僕が見たものはなんだったのだろうか。影か。幻か。愛しの“君”か。まだ見ることができるだろうか。草葉の陰からこちらを覗き込む君を見つけることができるだろうか。

 今思う。もしかすると、僕と君はずっと傍にいたのかもしれしれない。草花に、樹木に、大地に、空に、雲の間に、太陽の光に。それを見ることによって目と目で見つめ合い、それに触れることによって手と手を重ね合い、そうして僕らは“こちら”と“あちら”を繋ぐことによって、互いに存在することができているのかもしれない。

 僕はまた、いつかと同じように部屋の外に出て自然の中を歩き廻り、そうして君を見つけに行く。いな、もう探さなくても君は傍にいる。いつか知らない時に心のどこかでそれを知ったのだ。だから僕は前を向くことが出来たのだ。そして今それに気づいた。今、僕は君と一緒にいる!

 僕らの居る場所はそれぞれ違えど、確かに傍にいると今なら分かる。その架け橋となるのは自然の中にあるのだ。花がこみちわらうように、鳥が空を飛ぶように、木々に新緑が彩るように、天真爛漫、自然体な君はまさに自然そのものだった。

 君が往く 道の後ろを 僕が行く
 後ろ振り向く 君が微笑む

 ふと、藤原義孝ふじわらのよしたかの歌を思い出す。

 君がため惜しからざりし命さへ
 長くもがなと思ひけるかな

 僕が思うに、僕は“こちら”に存在しないといけないのだろう。それは君が“あちら”に存在するためなのだ。僕は自分が思うよりも長生きしなければならないのかもしれない。それは全部君のために。

 この世にはいない君。桜吹雪の中に見た幻なのか、木陰に揺れる影なのか、いつかどこかで存在していた生命なのか。それは僕にも分からない。分からないけれど、きっと考えては駄目な気がする。答えを出したら君が居なくなりそうな気がするからだ。僕はただ、自然の中で君に会うだけで良い。君の傍に居るだけで十分なのだから。

 万物がるもつるも 外に出る 
 行くみちに咲く 柳葉向日葵

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