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「作家になる」とはどういうことか?

「小説、書いてみたいんですよ」
 飲み屋かなにかでたまたま話すことになったおっちゃんのひとことに、ある作家はこう返したという。
「じゃあ、あなたが持っているそのiPhoneで今から書き始めたらいいじゃないですか」
 今日の話は、いってしまえばこのやりとりのことを何度も繰り返すだけだとはじめに書いておく。

 社会人1年目のとき、ものかきになるための「社会経験」として会社に入った。会社に勤めたのは2年3ヶ月だが、そのあいだに書いた文章は少ない。小説は短編1つすら完成させられなかった。毎日朝の4時に起きてとにかく書きまくってはいたけれど、使い物になるものはひとつもない。当時のぼくにいっておく。お前は会社をやめるまでマシな文章をひとつも書けない。しかし、会社をやめてフリーランスになった途端、中編小説が
気がつけば作家の友人・知人・恩人、ともあれ世に言うところの「作家」という人種のひととの交流がいろいろと多くなるなかで、まがりなりにも「文章を書く」という仕事をしていると、書けば書くほどに「肩書き」というものがわからなくなってくる。
 2017年、インディーズレーベルとはいえ、「惑星と口笛ブックス」からじぶんの短編集を刊行してもらった。まわりのひとたちはそのことをよろこんでくれて、
「お前はもう作家と名乗っていいんだよ」
 といってくれたりもしたけれど、今のところぼくはそう名乗るつもりはない。むしろ、この先たとえ文芸誌に自作が掲載されたり、紙の本が刊行されたり、なんらかの文学賞を受賞したとしても、ぼくはじぶんを「作家」とは名乗りたくないと考えている。作家を名乗ったところで生活は変わらないだろうし、じっさいに新人賞を受賞して「作家」になった友だちはみなそれによってなにかが変わったということもなかった。
 肩書きなんてどうでもいい、というのが本音だ。しかし、フリーランスとして働いていると「何者であるか」が客観的に見てわからないのは問題で、どういう経歴でどういうことに専門性があり、どういう文章が書けるのかというのは明確にしておく必要がある。たとえばこのブログがいまなお割と頻繁に更新されている理由もそれだ。開設当初はあくまでじぶんの小説の文体を整えるための練習場だったり、眠れば忘れてしまうだろう日々のあれこれを書き留めておくためなど、そんなごくごくありふれたプライベートで閉鎖的なものだったのだけれど、いまじゃ「文章書き」としての名刺でありポートフォリオであるといった意味合いが強い。
 ぼくは今年になってじぶん自身を「書評家」であり「コラムニスト」であるという風に名乗るようにした。便宜上、「ライター」と自己紹介することもあるけれど、取材系やインタビュー記事を基本的に書かず、あくまで「読書」や「科学」といったじぶんが自覚したアイデンティティに特化したフィールドでぼくは文章をやっている、ということを外的に示しておきたいという意図がある。こういう話はぼくの中だけのことなので、あまり話す価値もないだろう。

 ぼくが「作家」という肩書きをじぶんで使用することを拒んでいる理由はといえば、世間一般で認知されている「作家像」みたいなのがとても苦手だからだ。いまでこそインターネットで書いた小説を匿名で投稿し、同じく小説を書くひとたちとの小説を通じたコミュニケーションができるようにはなってきたとはいえ、それでも、
「ぼく、小説を書いているんですよ」
 みたいなことを、実生活の友人に話すにはなかなか勇気いることだ。少なくともぼくはそう思っている。小説を書いているなんて恥ずかしいことだ。高校生のとき、小説なんて書くどころかほとんど読みもしなかったのだけれど、文芸部で小説を書いていた4組のDというやつがいて、ぼくはそいつを気持ち悪いとおもっていた。バンドを組んで文化祭とかで音楽をやるやつらはかっこいいとはおもった。しかし、どうして小説は気持ち悪くて音楽はかっこよかったのか。どちらも「表現」であることには変わりないけれど、事実ではなく虚構に向けられた創意というのは、虚構であるがゆえに現実が守ってくれないのかもしれなかった。
 この現実離れの感覚がさらに現実に侵食したとき、暴力的な猛威を振るうことになる。
「印税生活したいの?」
 とか、
「有名になりたいの?」
 とか、
「芥川賞が欲しいの?」
 とか、そういうことを聞かれることはこれまでになんどもあって、その度に即席の自虐ネタでお茶を濁していた。ただそれ以上にもっと嫌だったのが「実作をしている」という事実以上に「どんな実績を残したのか」だけを前提として話がどんどん進んでいくことだ。

 小説の、特に下される評価における「おもしろさ」であり「むずかしさ」にあたるものは、「書く側」も「読む側」も永遠に未熟であるという点だと考えている。
 いわゆる「正解がない」なんてことばは個人的に嫌いだから使わないけれど、ぼくが感じている小説という世界では、正解がないどころかだれも正しくない。みんながみんな、なにかを絶望的なほどになにかを間違えながら、その間違いを貫き通して真実に変えてしまう虚構を作っている。
 読み手の評価とは、その間違いにどれだけ付き合いきれるかという程度にすぎなくて、ただおなじ人間であるという前提によってたまたま理解・共感できたものを「良い」といってるだけだ。そしてときどき人間が理解・共感できない小説を人間が読むにはどうしたらいいんだろうとよく考える。そうやってぼくは小説を書いている。そのぼくの思考や実作に「作家」という肩書きはいらない。

 オカヤイヅミによるマンガ『ものするひと』は友人のひとり大前粟生くんから薦められたものだった。このブログでぼくは何度も「小説を仕事にすること」や「文章のありかた」だったり、じぶんでも青臭いと自覚する内容をいくつも書いてきたけれど、大前くんは「そういうブログを書くのなら読んでみては?」とLINEでこのマンガを教えてくれた。

現代の作家のおだやかでミニマルなことばの生活

『ものするひと』は、ある純文学系の文芸誌が主催する賞を受賞してデビューした作家・杉浦紺という30歳の男性作家の日常が淡々と描かれている。かれは特に天才というわけでもなく、小説だけで生計をたてられているわけでもなく、警備員のアルバイトをしながらこじんまりと生きている。

 大人として生活したり税金を払ったりしながら小説を書き続けるというのはおもった以上に大変なことで、ぼくが小説を書き始めた当初に知り合った小説を書く友だちは、いまじゃほとんど連絡がつかない。かつての友だちとは小説が書けるたびに連絡があって、小説を読み、その感想を伝えあっていたけれども、その連絡はだんだん間隔があくようになっていって、気がつけば音沙汰ないまま5年とか6年とか経ち、就職や転職、部署移動、結婚、出産、身内にあった悲しいできごと、連絡が途絶える間際にはそうした報らせがよく届いた。
 そうしたことが何度もあるうちに、ぼくは誰かが小説をやめてしまうことがどこか当たり前におもえるようになった。たとえば学生時代に異常ともいえる熱量を注ぎ込んで音楽をやっていた先輩や同期や後輩が、就職や結婚などのイベントをきっかけに音楽を演奏するのでなく音楽を聞いて懐かしむように、ただ別のステージへと移行しただけだとさえおもえるようになった。ただ、ぼくにはそれができなくて、小説を書くための生活が欲しかった。

 この決断めいた感覚は強く見えるかもしれないけれど別にそういうわけじゃない。むしろ欲したのは「おだやかさ」であり「静かさ」だ。『ものするひと』で描かれる杉浦紺の「小説を書く=ことばと生活をする」という日常は、「小説を書く」ことへと向けられたミニマルな生活だけれども、そのおだやかさと静けさは「書く」という行為にとっての聖域を感じさせる。

小説を書くことを選んだ人生

 このマンガでもっとも印象的だったシーンが、「文学バーで文学おじさんに絡まれる」だ。

引用:オカヤイヅミ『ものするひと 1』

 ぼくも実際になんどかバーで文学おじさんに絡まれて、“ありがたいお説教”をもらったことがある。文学おじさんはこのマンガのとおり、
「文学とは人間を描くことである」
 という立場で議論をふっかけてきて、そのためには人生経験が必要だのなんだの、そういうかたちのマウンティングをとってくる。人生経験によって書くものが変わってくるのはそりゃそうなんだけど、しかし人生経験を経て考えられるようになったことが、経験も少ない時代の無謀な執着で考え抜かれたことに比べ「いつも優れている」というわけじゃない。10年前のじぶんと現在のじぶんがそもそもおなじ人間といえるのかも怪しいし、他人が書いたものとして比較困難なものとして両者はあるんじゃないか。人間の普遍性どうのこうのも確かに大切だとはおもう、高尚な思想より、ぼくには目の前にいままさに書かれている小説があるという事実が尊い。なんにもわかっちゃいない。ぼくは文学おじさんに絡まれるたびにそういいたくなるけれど、それをいうことによってぼくがぼくの考えを高尚な思想にしてしまう。

 ここで最初の話に戻る。
「小説を書きたいんですよね」
 というひとに対してある作家が、
「じゃあ今すぐiPhoneのメモ帳に書いたらどうですか?」
 と返したことについて。
 これまで話してきたたくさんの“(あえてこの言い方にするけれど)プロ”の実作者は、全員が「どんな文学賞を受賞したか」「デビューしているか」といったことに興味を持っていないかった。小説に関してはそのひとが実作をしているかいないか──ただそれだけがすべてであるといったような態度だった。対して実作をしないおじさんや「業界のひと」は、個人の実作について一切の関心を払うことなく、
「小説は儲からないよ」
「文学賞を受賞しなくちゃダメだよ」
「もっと頑張って、人生経験もしなくちゃいけないよ」
 みたいなことを不躾にもいってくる。

 だから「作家」という肩書きを今後一切名乗りたくない。「作家になる」とは、そうした世間一般のイメージも引き受けることなのだとしたら、ぼくは「作家」になりたくない。

 自分が何者であるかは仕事の都合でなんらかの肩書きをつけとかないといけないけれど、しかし自分がもっともこだわりたい部分において外野のクソみたいな印象を一切まといたくない。
 わたしは「実作者」であるというその事実だけがぼくには必要だ。
 だからぼくは小説についてなにか言わねばならないとき「実作者」とぼくを呼ぶようにしている。
 『ものするひと』は静かで穏やかなミニマルなマンガだけれども、「実作者」たる強い誇りを内に秘めている。小説だけでなく、すべての創作をするひとに読んでもらいたい。ほんとうに。

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