蒼生2019レビュー①:あなたとして生きる

早稲田大学文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系(以下「文ジャ」)の2年生以上を対象とした授業「編集実践2」の演習として製作された機関誌『蒼生 2019』の全企画ならびに編集後記を読んだ。

今後、それぞれの企画についての書評を随時公開したいと思う。

特集「あなたとして生きる」書評

 昨今、日本の現代文学シーンでは「人称」という問題が積極的に取り上げられている。言うまでもないことだが、この問題はいまにはじまったことではない。言葉や表現形式が持つ「意味」も含めた定型への懐疑から生じた技術的な試行錯誤は20世紀に世界各地で実作・批評といったかたちで行われ続けたことであり、特にその専門家を多く輩出した早稲田大学では、この問題が文学的に重要な文脈を有している。
 その文脈において「なぜいま人称なのか」と言う問題は、通信技術をはじめとするテクノロジーの革命的進化によって個人のありようへの影響がより直接的になったことにより顕在化した。たとえば詩人・最果タヒは、
「インターネットがなければわたしは詩を書かなかった」
 ということを折に触れて発言しているように、従来の環境では表現活動を行うことはなかっただろう人物が、インターネットというテクノロジーの発達により表現を始められるようになったという事例がある。
 いまさらいうのも「古臭さ」を否めないが、インターネットという技術は人間に対してのあらたな「紙」と「ペン」を生み出した。この「紙」と「ペン」という道具は人間と文芸表現の関係の中間に存在し、人間はこの道具を経由することで文芸表現への接触が可能になる。そこには「紙」を見つめる「私」がいて、ペンを握る「私」がいる。こうしたモデルを前提にした状況において、文芸表現におけるこの「私」の問題は極めて原理的なものであると考えられるだろう。

 そこで蒼生2019の履修者全員が制作に関与したという企画の表題を読むと、そこには「あなた」という二人称がある。「あなたとして生きる」──この言葉には省略された「私」という主語が読み取れる。そして巻頭に据えられた3つの対談・インタビューには、この表題に関する以下のような前書きが添えられている。

私たちは、子供でも大人でもない「間」に生きています。

自分らしい生き方を新しく模索し、迷走し、
先の見えない不安を抱える大学生として生きる
私たちへ向けてこの特集をおくります。
人生の過去・現在・未来という視点を踏まえながら、
己を見つめ直す地図のような企画を考えました。

まず、どうして「今」があるのか。
人生を振り返りながら、三名の方にお話を伺いました。

 ここに提示されたコアとなる概念は「間」である。
 学生という以外に何者でもなく、これから何者かになろうとする多数の「私」という中間的存在を映し出すものとして、この企画は意図されているだろう。3件の対談・インタビューは、過去にそうだったかもしれない、あるいはいまそうかもしれない「私」や、これからの未来にそうなるかもしれないという時間軸の後方と前方に位置する「私」の像を、「蒼生」という雑誌の紙面に文芸表現として映し出した鏡でもある。学生たちは年長者の話を聞き、それを編集という「ペン」を握り、その「紙面」に打ち込まれた文章を読み返すという中間的行為を経て、文芸表現への接触を行った。

 もちろんこの企画はこの対談・インタビューだけで構成されているわけではない。複数に可能性を持つ未来の「私」、ありえたかもしれない過去や現在の「私」の像を映し出すため、多くの人間の生き方を集めている。

 Twitterで積極的に発言を行う編集者・たられば氏のエッセイ。
 卒業文集というある過去を端点とする作家・重松清氏やミュージシャン・夏目知幸氏へのインタビュー。
 学生たちの過去の夢。
 さらには学生としてだけでなく、ホスト・モデル・漫画家・起業家・俳優という「何者か」として生きる同世代の生活について。
 中間的な「私」であることの不安に疲弊したとき、たとえささやかだとしても癒してくれるだろう作品の紹介。

 p6〜63に纏められた企画は掲げられた主題に対し、予算や締め切りなどの発行においての現実的な制約のなかで可能な限りのベストが尽くされたものだとおもった。特に印象深く読んだのが冒頭の3つの対談・インタビューであり、これらでは「セルフ(自己)プロデュース」というキーワードで、「私」が「私」たる確信を持つこと、何者でもない・何者かになろうとする「私」が「あなた」という可能性になるための具体的に超えなければならない壁を、鏡として提示している。
 編集員たちの先輩にあたる文ジャ出身の餅井アンナ氏のインタビューはなかでもその問題意識の具体性が強く、それは2018年早稲田大学で発覚したハラスメント問題への言及にも及ぶ。「ハラスメントへの消極的な加担」を見つめ、なんらかのかたちで直接的ではなくても間接的に影響を与えてしまったかもしれないという可能性について述べ、そうしたものも含めて過去や現在の『文ジャに身を置く「私」』の像を立ち上がらせている。インタビュアーは、

──(文ジャ生は)考えることが正義、という風潮と同時に、表現するべき個性がなくてはならないというような空気感もあります。

 という学内の風潮について述べ、そうした一種の「抑圧」的な雰囲気に対し、いかに「私」たるアイデンティティを確立するかの疑問を投げかけている。
 自身を取り巻く環境(あるいは「私」が何者であるかという外的要因)と「私」の中間に向けられた懐疑的なまなざしは件のハラスメント問題に限ったことではない。夢見ねむ氏×福嶋麻衣子氏の対談でも、既存の概念が外的要因となり抑圧が生じる事例が語られている。

夢眠 岡本太郎の渋谷の絵画にChim ↑ Pom が描き足したっていうニュースがあったとき、言及したら死ぬほど叩かれました。アイドルは美術について語ってはいけないんだってしょんぼりして。
福嶋 「アイドルなのにそういうのが分かるみたいなのやめろ」って言われたね。ちょっと批評めいたこと言うだけで、俺より頭いいなんて許せないって、マウント取り男みたいなのがいっぱいいてさ。
夢眠 一時期、自分の中で論破を封印してた時期ありましたからね、人気がなさすぎて。男の人を論破すると嫌われるんだと思って、頑張って黙ってたときもあったんです。まあ性格なんで、直らなかったけど(笑)。
福嶋 そんな世の中だったんですよ、ほんとちょっと前まで。だんだん、アイドルってものがいわゆるオタクだけのものではなくなって、ようやくねむちゃんいいよねってなってきた。これより十年早かったら絶対人気なんて出てなかったし、たまたまだけど時代の過渡期にいたんだなあって感じがする。
夢眠 私より上の世代の女の人が色んな辛い目に合ってるっていうのはやっぱり私にも想像がつかないですけど、私たちも一つの時代としての理不尽さを体感してて、たぶん今の子たちが「え、そんなの考えられない」って驚いてくれる。今は今で例えば育休のこととかで戦っているわけだけど、そしたら下の世代がまた楽になっていくのかなあ。だから、頑張ろうねって思う。

 なんらかの所属を持っていたり、例えば学生・アイドル・ライターなど「何者か」であることによって、「自分はこういう奴だろう」「こうあるべきだろう」ということが不可避的に求められるケースは少なくない。セルフ(自己)プロデュースとは、まずそれを見つめてから受け入れるか解体するかの選択から始まる。開発者・AR三兄弟の長男・川田十夢氏のインタビューでは、作品製作にあたり文脈と時代を俯瞰し、そのなかで何が残されてきて何がまだなされていないのかを見つめた旨が語られている。
「文豪カメラ」と言う川田氏が開発した「カメラに写り込んだものを選んだ作家の文体で描写したテキストが作成される」と言うアプリを例に、「作家の表現を今の時代に映し出す」ということについて、以下のように述べている。

川田 作家の感覚というのは、それを現代でどう言葉にするのかって橋渡しをしないと途絶えちゃうんですよ。太宰とかがいくら当時の若者の心を書いていたとか、女性の一人称がすごい上手だとか、そういう評価があったとしても、今の感覚で文章を起こしてもらわないと、ある層から伝わらないんですよ、読めないから。ただでさえ本読まないからね、みんな。僕が作った「文豪カメラ」というアプリがあるんですけど──(中略)──夏目漱石や江戸川乱歩だったら今この景色をどう描くか、作家の感覚に接続していまの風景を描く文章を再現するものなんだけど、こういう形で作家の文体を残して行かないといけないなって思います。

 また川田氏の継承を前提とした時代感覚は、同企画内の別コンテンツ「キラキラドリーム卒業文集」に掲載されたミュージシャン・夏目知幸の感覚に近いものがある。

夏目 風通しよくいたいんだよ。将棋の羽生さんの記事にあったんだけど、将棋をさす時、若者達はいかに高確率で勝てる道を選ぶかで勝負するけれど、彼は敢えて勝ちにくい方を選ぶんだって。それじゃ普通は勝てない。でも可能性は一応ある。それを打っていかないと将棋の多様性がなくなると彼は感じている。多様性を担保するために、自分が賭けていく。それが分かる気がして。音楽でも全員が受け入れられやすいものを目指すと面白くなくなるんじゃないかな。こういうのがあっていい、やる人がいてもいい、と。続けていくのも難しいんだけれどね。

 前後するが、冒頭3つの対談・インタビューからは、時代に対してそれぞれがどんな位置に立ち、それと自分の相対的な位置関係をかえりみて、いかに「私」を制作していくかという試行錯誤が多角的に記されている。欲を言えば、夢見ねむ氏×福嶋麻衣子氏の対談と餅井アンナ氏のインタビューの話題が近いぶん、川田氏のインタビューが若干浮いているようにも感じられるのだが、これは餅井氏のインタビュー内で生じた「文ジャ生であるがゆえに個性的でなくてはならない」という風潮とどう接するか、個性的であることとは何か、という論点にフォーカスすることで、より統一性を持たすことができたのかもしれない、と感じられた。

 そうした強迫観念、「あなた(「私」)らしさ」の呪縛について、直後の編集者・たられば氏のエッセイで語られている。

 そうして何者でもなかったわたしは、編集者になっていました。これはちょっとややこしい言い回しなのですが、わたしは、確かにわたしにとってだけの「特別なわたし」を抱えたまま、特別でない毎日をすごし、特別でない仕事を毎日こなし続けたことで、やっと何者かに慣れた気がします。
 今回、本誌編集部の方からいただいたお題は、「あなたらしさとは?」というものでした。
 きっとこのお題を前にした若い皆さんは、「あなたらしさ」ってなんだよと思うでしょう。そんな無責任な、と。それは、このフレーズに囚われて自意識の呪いにかかりたくないための防衛本能だと思います。
 それでも……なのです。
 あなたはあなたでしかなく、その「特別ではあるけれど、どこにでもいる自分」を受け入れて生きてゆくしかありません。特別でない相手とほんの少しだけ特別な関係を築き、特別でない毎日をすごす。
 そうすることで、いやおそらくそうすることだけが、自意識の呪いを「祝福」に変えることができる唯一の手掛かりなんだと、かなり本気で思っています。

 一方で(というのも微妙なニュアンスだが)、偶然のなりゆきで「何者か」になるケースもある。「キラキラドリーム卒業文集」に収録された重松清氏のインタビューでは、小学校の卒業文集で「教師と作家になりたい」という旨のことを書いていはいたものの、中学時代には特に意識することがなくなり、しかし偶然の連続によって作家や早稲田大学の教員になった過去が述べられている。結果だけ見れば「一貫している」ように見えるが、その経路はまっすぐだったわけじゃない。それでもかつて卒業文集に書いたことが実現しているという現状について、このような応答がある。

──先程、小学校時代の夢が中高で途絶えたとおっしゃっていましたが、お話を伺うとまさに文集通りの人生を歩んでおられるように見えます。一貫する自分のようなものがあったのでしょうか。
重松 あるね。伏流水ってわかるかな。上流を流れる水は暫く地面の下に行くけれど、しっかりと流れている。一番吃音が酷かった思春期の頃は作家にも先生にもなれないと思っていた。でも喋れなかった分、自分の思いを伝えたり人の思いを受け止めたりすることに、人一倍敏感だったと思うんだよ。だから作家になるために必要なこと、人間の幸せについて考えて言葉で伝えるってことは中高の間もずっと地面の中に流れていて、早稲田文学や出版社、フリーライターを通してだんだん上がって来て、それで作家になって、ポーンと出てきたんじゃないかな。だから今の自分の中に、小六の自分も、中高生の時の自分も、いるんだよ。
──自分らしさのようなものですか。
重松 うん。自分を伝える時に絵を描く人もいれば音楽で表現する人もいるじゃない。俺は、言葉。世界の中での自分の居場所を考えたとき、小学校時代から無意識のうちに、言葉が居場所だった。だからこれが、自分らしさなんだと思う。

 年長者である重松氏から見れば、学生たちはまさに今、紆余曲折を経てこの「伏流水」の動きを感じとることが重要だと考えられるのだろう。そして「学生×◯◯」では、重松氏のいう「伏流水」の活発な動きを見せる学生たちへのインタビューが続いている。
 安易なことをいえないが、「何者か」になることに対して一般的な大学生より一足早く踏み出した彼・彼女らは、より大きなビジョンの達成のために「伏流水」のような時期にあるのかもしれない。現状が人生のゴールではない、かつて思い描きもしなかった未来が「現在」となっている者もいる。何者かになりはじめたからこその、少しだけ「私」とは異なる「あなた」のポートレートがこのインタビューだ。
 個人的な感想ではあるが、この企画は着眼が優れているだけにインタビューではなく「座談会」などの形式で読みたかった気持ちもある。例えば学生×ホストの龍希氏や、学生×モデルの岡本奎志氏は将来的に起業したいと述べていて、彼らが学生×起業家である大槻祐依氏とどのようなやりとりをするのかを見てみたい。「学生×◯◯」というコンセプトだが、個別にインタビューすることによって「◯◯」だけの部分に紙面の多くを割くことになる構造上の課題や、現実問題として多忙なインタビュイーたちを同じ日時に集めることの難しさがあっただろうと察するが、彼・彼女らのやりとりによって「学生×◯◯」という性質の普遍性を見出せたかもしれない。

 以上が「あなたとして生きる」を読んだ感想だ(編集部イチオシの4作品についての具体的な言及まで及ばなかったのは、ぼくの力不足だが、当然これも面白く読んだ。特に、「SKE48単独公演」の紹介が好きだ)。

 この企画で一貫して見つめられたのは、「あなた」のありかた、そして「私」の可能性の万華鏡だ。そして「あなた」たちの声の無数の組み合わせによって誰でもない新たな「あなた」の像が増殖する。ほとんど無限に存在する「あなた」のなかから「私」を見つけ出す「私未満の私」を映し出す鏡が、この紙面なのだと思った。

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