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普通の小説に飽きたひとにオススメしたい「ちょっと変わった小説」を選んでみた

 ライターをはじめてすぐのころ、Googleトレンドを使って「小説 おすすめ」の検索数推移を調べてみたことがある。


 参考までに「小説」単独の検索数推移も見てみたけれど、こっちは一時期な増減があるとはいえ、トータルすると「ほとんど横ばい」にも見える
「おすすめ」をつけて検索すると、上図のようにその数は「右肩上がり」になったという結果は、「これから読む本を選ぶ手段としてインターネットを利用する人が増えている」こと、つまり、インターネットの読書市場への寄与が年々大きくなっていることが示唆される。そんな雑な考察をしたのだった。

 小説が読まれるようになると、同時に「普通の小説に飽きた」ってひとも増えるだろう。そこで今回はぼくの本棚にあったもののうち、「ちょっと変わった小説」を集めてみた。
 とはいえ、どれも読書家のひとからすれば「基本中の基本」なので、知っているから(読んでいるから)といって、そんなにドヤ顔キメれるものでもない。そもそも、ドヤ顔キメるために読書するわけでもないのだけど、まぁドヤ顔キメるのもひとつの楽しみかもしれないのでぼくはあえて否定するようなことはしない(ドヤァ

 というわけで、本の紹介をサクッと始めます。

基本中の基本「日本(推理小説)三大奇書」

読書好きなら一度は聞いたことがあるだろう3作品。「読めば精神を病む」だのいわれることもあるけれど(これはドグラ・マグラの本編内で、作中登場する小説「ドグラ・マグラ」の説明として使われることが由来?)、奇書たる所以は、「探偵小説のタブーをおかした作品」という意味のようで、「アンチミステリー」などと呼ばれたりもする。
夢野久作「ドグラ・マグラ」は作品内に複雑なメタ構造が仕組まれ、時間感覚や「自分が何者であるか」が常に宙吊りにされた状態にある、三大奇書の中でもずば抜けて知名度の高い作品です。あるいは「チャカポコ ブゥーン」としてもあまりにも有名。

 ドグラ・マグラに比べ残る2作はちょっとインパクトは落ちるのだが、糞サブカル読書家としてはきちんと押さえておきたいところだ。
 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」は連続殺人事件を名探偵が推理・解決するという仮初めの(!?)姿をしたペダントリー小説。内容がオカルトネタのお饒舌オンパレードで、読んだそばから頭に入らない。でも、なんかこの雰囲気、トマス・ピンチョンをちょっと想起したりもする。

 そしてこちらもペダンティックな作品。
 中井秀夫「虚無への供物」はほとばしる推理合戦。推理で殴れ!みたいな感じで、「っていうか、殺人事件が起こる前に推理しちゃえばよくね?」みたいなことがしょっぱなからぶっこまれます。ぼくはミステリに疎い読者なので、ミステリに強い友だちに一度どう読んでいるのか聞いてみたいところがある。

文章でぶん殴ってくる系

 ページをひらいてぶん殴られる、そんな感じを味わいたい方にオススメしたい小説は以下の3つだ。

 まずは何といってもこのひとは外せない!現代文学のモンスター、ウラジミール・ソローキン兄貴の傑作「ロマン」。「小説」を意味する主人公ロマンが、19世紀的文学世界のなかで絶命するまでを描いた一作。これを書き上げた時、ソローキン兄貴は、
「これで文学の埋葬は完了した・・・(ドヤァ」
 といったことはあまりにも有名。文学(=小説(=ロマン))の死とは、何か。それを表現した下巻後半からラストまでの描写がこんな感じ。(写真により引用)

 そしてこれは日本文学の奇行児・木下古栗に受け継がれる。

 木下古栗「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」に収録されている迷作「Tシャツ」はでは、ロマンがまち子という中年ババアになり、(無意味に)大活躍するシーンがある。(写真により引用)

 木下古栗はもっとみんなに評価されて欲しいので度々ブログでも取り上げるのだが、ほんとうにくだらなく、意味のないものに全力を捧げているあたり好感が持てる。こんな作家は1人いたら十分だ。

 3作目は、映画化もして有名になった、ジョナサン・サフラン・フォア「ものすごくうるさくてありえないほど近い」だ。

 映画も結構好きなのだが、この原作は文章がほんとうにいい。 作中、メモ書きであり、絵、ポケベル式の文字入力の連打、逆回しされた連続写真など、ことばではない領域にことばを作ろうとする技巧がたくさん仕組まれている(写真により引用)。

 こうしたギミックについては、それを良しとするか稚拙とみなすかは読むひとにより評価は大きく割れる。しかし、こうした表現も許容される懐の広さが小説の良さだとぼくはおもうので、こういう小説があってもいいんじゃないかという気持ちが強い。

「筒井康隆」作品

 こういう話をすると大抵「筒井康隆でしょう〜」といわれるのだが、実はぼくは筒井作品の良い読者ではないため、出来るだけ触れたくない。しかし、避けて通れないのもまた事実なので、ここでは代表作でもある「虚人たち」「残像に口紅を」の2作を紹介しておきたい。

「虚人たち」は、すべての登場人物が自分こそ主人公だと自覚しているという自意識を持ち、小説本文は原稿用紙1枚が現実世界の1分に相当するように書かれている。奇天烈な設定であり語られ方に感じるかもしれないが、現代文学の諸問題を圧縮し、リアリズムとフィクションの異質さをえぐり出すような力のあるメタフィクショナルな快作だ。

「残像に口紅を」は文字がひとつずつ消えていくという小説。文庫版の解説には、本作の情報エントロピーの推移をどーのこーのした論文が付いていたような気がする。

ウリポについて

 筒井康隆が出てきたら、ウリポの話をしなくちゃならない。ウリポというのはフランスの前衛文学集団で、元はシュルレアリスムの影響を受けたひとたちの集まり。
 シュルレアリストと大きく異なるのは数学的構造に美や真理を見出そうとしたことだといわれていたりいなかったり。ここからはペレック、カルヴィーノ、クノーの作品を紹介する。

 ジョルジュ・ペレック「人生使用法」はとにかくでかい本。この本は前述の筒井康隆が大絶賛している(余談だが、筒井康隆の「残像に口紅を」はペレックの「煙滅」に刺激されての作だとか)。
 これは10×10の全100部屋あるアパートを1章1部屋で記述していく全100章の小説だ。ちなみに登場人物は1000人を超える。この数字がどんだけすごいかというと、トルストイの「戦争と平和」やトマス・ピンチョンの「重力の虹」でも400〜500人程度。これを聞くと結構ぞっとする数字だ。作品の詳細もすごいのですが、ここはぼくの解説より優れたブログがありましたので、深入りせずにリンクを貼っておく(とりぶみ 【書評】ジョルジュ・ペレック『人生 使用法』)。

 イタロ・カルヴィーノ「宿命の交わる城」は作者本人によってこのように解説されている。

本書はまずタロット・カードの絵模様で作られ、ついでに文字に書き写された。

 カルヴィーノは個人的に好きな作家で、20歳くらいの時によく読んでいた(「レ・コスミコミケ」が特に好き)。この小説の雰囲気は写真で見てもらった方がわかりやすいかなとおもう。

 レーモン・クノー「文体練習」は、ウリポのボス、クノー大先生の代表作。これについてはもう説明するまでもないので、こちらを参照していただきたい。

書き手と作品の関係がおかしい小説

 変な小説なんてあげ出せばきりがないので、これで最後にする。

 まずは 「ソラリス」で有名なレムの作品。「完全な真空」架空の小説の書評で、「虚数」は架空の小説の冒頭集だ。読んでいてごちゃごちゃうっせえ!ってなるひともいるだろうとおもうけれど、ないものについて語れば語るほど、あるということ以上の存在感が出てきたりするから不思議。

塵が降り積もる部屋の中で僕は「穴」になってしまった、 と言う筋書きの小説に多量の注釈、そして注釈の注釈がひたすら続くのは円城塔「烏有此譚」。ひたすら、といえども原稿用紙にすると100枚程度なのでそんなに長くはないはずなのに、一生読み終わる気がしないような気分になってくる。これも写真による引用で雰囲気を掴んでもらいたい。

 最後はメキシコの作家サルバドール・プラセンシア「紙の民」
 ほぼ間違った説明をすると、物語は小説の登場人物たちが小説作者(=土星)に対して、「何見てんだよクソが!」といった感じで反乱してくるというものだ。それぞれの主要人物の視点で小説は段組されていて、なかなか楽しいレイアウトになっている。いうまでもありませんが、読了にはなかなか体力を使う。

まとめ

 散々長々と小説を紹介し続けてきたが、これらはぶっちゃけ有名どころばかりなので、小説オタクのフレンズにはあまり納得いただけなかったかもしれない。
 しかし、こうした「変な小説」が世にあるということがぼくはうれしい。
「変な小説」というのは決まって読むのが大変なものばかりだが、単に物語を追うだけでない文章そのもののおもしろさや「小説って何?」という疑問を想像力の核として書かれている。その想像力を受け止めるには読者の思考力と器量も要求されるが、それは「本に育ててもらう」ものだとおもう。
 じぶん1人だと考えもしないことを、こうした本の力を借り受けてぼくらは思考できるようになる。「変な小説」の魅力はそれだとぼくはおもっている。

 世界には一生じゃ全然足らないほどの小説が溢れている。そして未知の小説はその世界の広さを教えてくれる。この戯れの記事が長々とお付き合いいただいたあなたが読む「次の1冊」との出会いになれば本望だ。

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