友だちが芥川賞をとった件

新潮で町屋良平『1R1分34秒』が掲載されてすぐに読み、これはぜったいに芥川賞をとると確信していろんなひとに即LINEを送ったのだが、いざほんとうに受賞となるとすごく不思議な気分になる。
かれらしい控えめで謙虚な受賞会見で質問を受けていた赤い上着は、町屋良平が文藝賞を受賞した際にかねてからの友だちたちのあいだで行ったちいさなお祝い会で着ていたものだ。質問に「一張羅です」とこたえたその赤い上着が2年間かわらずに一張羅であり続けたことは、そこに映るかれがまさしく「町屋良平」であるとつよく裏付けてくれたわけだけれども、その強力なリアリティは一周まわって現実感をすさまじい速度で剥ぎ取った。妻がみていたテレビにニュース速報で町屋良平の名前が表示される。そこではじめてぼくは「芥川賞」というものの大きさを知った。


ことばと身体をめぐる系譜

2016年に「青が破れる」で文藝賞を射止め、また同作で三島由紀夫賞の候補に入るという鮮烈なデビューを飾った町屋良平は、ひらがなを多用した明晰さと視界の悪さを併せ持つ独特の思弁的な語りをトレードマークとした作家だ。
当初、一見して「拙さ」として目立ちうるその文体が現代日本の純文学シーンでどのように評価されるのかを勝手に不安におもっていたのだがその心配は杞憂となる。ダンスに打ち込む男子高校生の1年を描いた青春小説『しき』では、その不確かでありながらもなにかを見つめ続けようとするかれのテクストが心と身体の運動としてより洗練され、「身体性」ということばで高い評価をうけ、芥川賞候補に名を連ねた。続く2018年下半期は書評家の倉本さおり氏が新しいフリーター小説として高く評価した『愛が嫌い』を発表し、そして芥川賞受賞作となった『1R1分34秒』など次々と傑作を発表し、まさしく作家として大きな飛躍を遂げた。

※文庫本にはクリープハイプの尾崎世界観との対談が収録されるとのこと

生活とスマホと実作

文章のみにとらわれない広義の「表現」に対して自覚的な実作を続けるかれの題材として、大きなものに「スポーツ」と「生活」がある。そしてそれらは要素として独立して抽出はできるものの、作品内では地続きのものとして扱われる。『しき』であればダンスをする生活が、『青が破れる』『1R1分34秒』であればボクシングをする生活が、小説の空間として構築されている。
これは町屋自身の実作スタイルにちかい。
深層ニュース出演時に受けた執筆スタイルの質問に対し、かれは
「スマホで風呂に入りながら書いている」
とこたえた。これはリップサービスではなくまぎれもない事実で、かれの家にぼくが宿泊した日であってもかれは風呂に入りながら本を読み、小説を書く。いや、書いているのかは厳密には知らない。ぼくは朝方人間で寝るのが早いのに対し、夜型で一度寝たら昼まで起きないかれの風呂の時間が長い気配だけを知っている。
スマホで風呂に浸かりながら全裸で小説を書く理由をかれは、
「小説を書くぞ!っていうふうに書くんじゃなくて、生活のなかで小説を書きたいから」
というふうに述べている。つまり、ダンスをする生活やボクシングをする生活を書く町屋良平自身は、小説を書く生活のなかで小説を書いている。
「なにを使って」「どこで」「いつ」「どう書くのか」という問題。これらが実作に及ぼす影響を論じるのは容易ではない。ひとりの実作者としてその影響は確実にあるという実感は持っているのだが、一般性が保証される次元でそれを主張する自信はない。
しかしひとつ可能性としてあげるならば、かれの文章の断片性にあるのかもしれない。
町屋作品の特徴として、主人公の友人が出てくるのだが、その友人たち同士は知り合いではない。語り手の生活のなかで友人たちはそれぞれに入れ替わり立ち替わり主人公の生活に現れ、町屋良平はその交流の切り替わりを巧みに編集することで、友人から友人への跳躍を、思考から思考への跳躍と同期させる。
「いつ」「どこで」「だれと」「なにをしているか」という偶発により思考が生じる。こうした物語内で主人公の内部に浮き上がる偶発的なことばは、まるでTwitterでつぶやくような断片として、アフォリズムを帯びたかたちで小説化される。偶発、断片化、アフォリズム……「スマホで小説を書く」という行為は、そうしたものの運動性を高める効果をもたらしているのかもしれない。

アマチュアリズムからプロフェッショナルへ

自分のものにしたいとおもった。
この画面にうつっている動画の、粒子よりこまかく、すべらかな動きを、ものにしたいとおもった。そのためにもっともっと、つよくつよく練習しなきゃいけない。
町屋良平『しき』

芥川賞受賞作『1R1分34秒』がこれまでの町屋良平作品と大きく異なるのは「アマチュアリズムからプロフェッショナルへの移行」にある。デビュー作『青が破れる』ではおなじくボクサーを描いてはいるがアマチュアであり、『しき』では単にニコニコ動画で公開されていた動画に触発されてダンスを独学ではじめたふつうの男子高校生だ。
NHKのラジオ「著者からの手紙」にて町屋は『1R1分34秒』について、
「この小説の主人公はプロボクサーではあるものの、じぶんがなぜボクシングをしているのか、ボクシングへと向かわせた初期衝動を忘れている」
と述べている。そしてこの初期衝動が失われてしまったがゆえに作品内では「ボクシングをはじめたきっかけ」などキャラクター形成に大きく関わるだろうエピソードが省かれており、ゆえに読者は主人公がボクシングのことを考えボクシングをする生活に寄り添うことによって、かれとボクシングの関係性をみずから思考する術を得る。

ここで先ほど引用した『しき』の一節を見ると、『1R1分34秒』とは対照的であることに気がつく。この文章は『しき』のかなり序盤に配置されていることで強調されているように、「主人公は踊ることに対する初期衝動」を明確に持っている。その初期衝動を信じることでダンスの練習を続けられていて、この初期衝動こそがダンスをすることの方位磁針であり、よろこびそのものだ。
しかし、『しき』を通読しておもったことは、きっとダンスを一緒に練習したこの主人公と友人は、これ以上ダンスにのめり込むことはないような気がした。続けるにしても、遅かれ早かれいつかダンスをやめるだろうということが強く感じられた。
この理由がいままでわからなかったのだけれども、『1R1分34秒』を読むことでなんとなくわかった。かれらがダンスをしていたのは、瞬間的に湧きたち、時とともに減衰してゆく初期衝動への依存が強かったためではないだろうか。
『1R1分34秒』という作品は、その初期衝動が完全に減衰しきったあとでもなお「続ける」というプロボクサーの生活が描かれている。職業としての義務であり使命である「試合で勝つ」ことを中心に生活スタイルが組み立てられ、思考が組み立てられ、ほぼ自動的に構造化される生活への無意識的な逃避願望のような葛藤も現れる。
しかしこの小説では、「じぶんが試合をしている動画」の描写は何度も現れるのに対し、ほんとうの試合は実質的に描かれていない。プロボクサーにとっての「表現」たる試合ではなく、その前段階の「準備」に光が当てられている。
「初期衝動」とは、いずれ失われるものなのだろうか。やはりそれも一般的な回答はむずかしい問題であることには変わりない。あるひとにとっては折に触れて回帰すべき原点でもあるだろう。しかし、スポーツにしろ芸術にしろ小説の実作にしろ、実践者にもたらされるよろこびやしあわせは、それらの像の絶え間ない変化として生起する。
町屋良平は深層ニュースで受けた「小説とはなにか?」という質問に対し、
「小説がなにかは、実は小説家がいちばんよくわかってない」
と答え、共演していた上田岳弘はそれに同意し、
「わからないから書く」
と答えた。
プロフェッショナルという意識について、ひとつ確実にいえるだろうことは「続けること」だとおもう。表現はやりたいタイミングでいつでもやってかまわないし、やりたくないならやらなくてもいい。だけど、初期衝動が消え去ったフェーズで、その初期衝動に似たもの、あるいはそれに変わる別のものを絶えず見つけられるかどうかは、プロたる力量になるんじゃないか、とおもった。

小説を書く生活を続けるなかで、たぶんそれは人生のなかで入れ替わり立ち替わりあらわれるひとびとのように、偶発的な要素を多分に受けた一期一会的なものだろう。
その偶発を逃さないことこそ、ぼくの知る町屋良平のもっとも優れた感覚だとおもう。これからも風呂にのんびりつかって、小説に向かわせるあらたな衝動をスマホでしっかりつかまえてほしい。今回の受賞は友人としてとても誇りにおもうし、ひとりのファンとしてとてもうれしい。

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