見出し画像

郷愁のうた 俵万智展

俵万智さんが福井県・武生市の育ちだと知ったのは最近のことだ。わたしは昔から与謝野晶子の短歌が好きだったので、俵万智さんのエネルギッシュな『みだれ髪』の現代語訳にいたく感動し、同じ熱量を持つ『チョコレート革命』の甘く苦い恋の歌にもまた憧れを抱いていた。と言いながら、教科書に載っている「サラダ記念日」は、なんだかわたしの知らぬ若い人たちの短歌のようなイメージがあって、自分が歌を詠むようになってからも、少し距離を感じていた。俵万智さんはチョット遠いひと。わたしは与謝野晶子のように類稀なる愛のシャワーを浴びたり与えたりした経験も、特別な誰かと小さな記念日を持っているわけでもなかったので。

現在、角川武蔵野ミュージアムで開かれている「俵万智展」(2021/7/21-12/5)は、そんなわたしの俵万智さんの短歌への認識を変えてくれた。特に琴線に触れたのは、一連の望郷の歌。武生から都会に出て郷愁に心を揺らす歌は、共感を呼び起こす。故郷の家族と交わした数々の葉書の展示とあいまって、読み手の胸を強く揺さぶる。ひとりの部屋で感じるあの寂寥感が、鮮やかに立ち現れる。

母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる(『サラダ記念日』)

望郷の歌は、すんなりとわたしの心のいちばん柔らかい部分に入ってきた。切なく激しい恋の歌や、日常で起こる心の揺れを書き留めた歌たちも素晴らしいけれど、それらの三十一文字にはなかった親しみと優しさでわたしを包んでくれた。たとえば室生犀星は「故郷は遠くにありて想うものそして悲しくうたふもの」なんて言っているけれど、そんな大人びた諦観を抱けるほどわたしは達観していない。すくなくとも故郷に焦がれる、上京したての十八歳の若者にとっては。

俵万智さんの育った場所が、ちょうど東京を目指していた頃の自分の経験に響き合ったというのも大きいかもしれない。わたしがセーラー服を着ていた頃、生活の中心は音大受験のためのレッスンだった。東京の子たちは入学前から大学の先生に師事するのが常で、地方に住むということはそれだけで機会損失を被っていて、大きなハンデを背負っているようなものだった。地方の子たちはこぞって新幹線で上京し著名な先生のレッスンを受ける。幸運にも、わたしは地元でソルフェージュやピアノの先生に師事することができ、東京の子たちと変わらぬ恵まれた環境にあったと思う。ただ、それでも「英語と小論文は専門の先生に師事した方がいい」というアドバイスを受けたので、金沢からできるだけ近いところで、第一線で活躍する先生を探して繋いでもらった。その先生がいらっしゃったのが、福井だった。

先生とのレッスンは午前九時半から。学校が休みの日、朝の四時台に起きてローカル線の始発を乗り継いで福井駅に向かう。冬は凍てつく寒さで、あたりは真っ暗。親から貰ったレッスン代を握りしめ、金沢から鈍行で三時間あまり。道中は普通列車の硬い座席で楽典の参考書をめくる。そんな生活を丸二年、続けた。

一年目にはひとつ年上の先輩と一緒に机を並べていた。彼女は福井の名門・藤島高校の三年生。俵万智さんの後輩ということになる。わたしなんかよりずっと音楽への造詣も深くて、また年上だったこともあり、入門したその日のうちに英語力の差も明らかになった。わたしは悔しさゆえ「自分だってあと一年あれば……」なんて闘争心を剥き出しにしていた気がする。彼女とは最終的に別々の大学で学ぶことになったけれど、ともに学んだ時間には大いに刺激を受けた。

わたしたちの先生は、素晴らしい音楽学者であると同時に、教育的な配慮に溢れた方だった。常にあたたかい眼差しをもって、芸術への興味を掻き立ててくれた。先生の専門は現代音楽だったけれど、小泉文夫からグレゴリオ聖歌、はたまたサウンドスケープまで、広範な知識をわたしたち生徒に授けてくれた。

わたしは喉の渇きを潤すように、先生に薦められた本を貪り読み、時間を見つけては美術館に出かけ、乾いたスポンジのごとく芸術にまつわる知識を吸収していった。おかげで一年後にはニコラス・クックの論文を読めるまでに成長し、壊滅的だったはずの英語は得意な科目になっていた。何より芸術への思索を深めることができた。本当に貴重な経験だったと思う。先生のもとで学んだ二年間がなければ、大学での生活はおろかその後のたくさんの出逢いもなかっただろうから、もしかしたら全部この高校時代の経験が土台になっているのかもしれない。……という、福井での2年間のお話。

雪の降る福井に在りし日の記憶あたたかく心の住処なり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?