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型にはめること

人が生きていく上での根源となるもの。

以前のnoteに書かせてもらった。
人は究極のところ、自分が「安心安全、大丈夫」であると太鼓判を押せる状況であることが大きな土台となり、生きていけるのではないかという内容だ。

でもその「安心安全、大丈夫」が間違ったアプローチからなされると、世間が周りが自分が大きく誤った方向に歪んでいってしまうと感じている。

それは、モノや人をとある型にはめ込んでそれらを周りや本人に強要することだ。

Aは絶対Bだ。
あるいは
◯◯はこうあるべきものだ。
という決めつけ。

決めつけてしまえば、もうそれは「存在の仕方の固定」となり、動かない、イコールそのものを深く考えたりその場その場で対応を考えなくて済む。

変化をしない、動かない事実となり、つまりは安定し、そのことについてはそういうものなのだと単純化され、安心を感じる。ゆれ動かなくて済む。

そういう事象は世の中多々あると思うのだが、特に私がそれを感じるのは、学生時代の個人の在り方だ。

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本来であれば、学校での個人の在り方や立ち位置はもっと自由であっていいと思う。が、イメージや周りからの決めつけで、自分がこうあらねばならないという無言の重圧があると思うのだ。

たとえば、あなたは暗いイメージだから、この部活はふさわしくない、あるいはこういう暗い部活に入ってたら頷ける、とか。
そして逆にそれぞれの部活のイメージもある。
・爽やかな人が入る部。
・ダサい人がたむろしてる部。
・イケてる女子が沢山居る部。
・マネージャーは美人の女子がやるもの。

やりたいことをやれる部活に入ればいいのであって、周りのイメージありきだから部活は辛い。やらされている感がある。

そして、大人になってからみんな色々やりたがるのは、昔各々が学生時代にできなかったことを、その頃の制限を外すことができてやれる状況になったからではないかと思っている。

なぜならば、考えてみたら、自分自身もその節があるなぁと振り返ったからだ。

私は特に目立った子ではなかった。あまり学校に馴染めなかった。親友はいたがクラスが離れてしまい、自分のクラスで心を許せる人はいなかった。
周りに尋ねてみたことはないが、やはり暗い人のカテゴリに入っていたのではないだろうかと推察する。
そんな私が学生時代にやってみたいと思ったことで、当時はそのイメージにそぐわないと判断し、また周りからも判断されて、「空気を読んで」諦めたことを、大人になってからいくつもやってみた。純粋に楽しかった。

あのときやれば良かったなぁとも思うのだが、恐らくは周りからの視線や雰囲気に耐えきれず、やはり諦めたのだろうと思う。

またいわゆる「大学デビュー」に関しても一部はそうではないのかと思う。
決して本人が急に「デビュー」しようとしてしたわけではなくて、元からそういう素質があったのに、周りからの決めつけにより抑圧されていたからではないだろうか。

私の同級生で、本当は美人で綺麗な子なのに、とあることがきっかけでダサいグループに格付けされてしまった子がいた。その本人から話を直接聞いてないからわからないが、綺麗になろうと身だしなみやオシャレに気をつかうことさえも諦めていたように見えた。その子は高校を卒業し、大学という違う環境に行き、自分のことを知らない人がいるから、なりたい自分をさらけ出せたということなのだろう。

(本筋からは離れるが、「大学デビュー」に関して言えば、本来の自分の欲求ではない場合もあるかもしれない。抑圧された気持ちが反動で極端な真逆の状態にまで振り切れてしまったというケースだ。)

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コミュニティでも特に一番狭いと思われるのが学校のクラスだと思う。学校の中でその人を勝手にカテゴライズしたり、イメージのラベリングをしたりするのが、「自分が自分らしくいられない、生きづらさの原因」になってしまうのではないだろうか。

社会はコミュニティとしては学校より多少広い気はするが、それでも物事に対する固定的な見方、決めつけはやはりあると思う。

自分も気づかぬうちに固定的な見方をしていることも多々あると思う。
悲しいかな、学校というコミュニティで自分が受けた狭いものの見方によって、また自分自身も半分無意識のうちに、相手や周りの事柄に対して同じように狭い視野で見て把握してしまうことを植え付けられてしまっている。

それがその相手を苦しめていないか。
相手の一部だけをみて短絡的な判断をしていないか。

よく胸に手を当てて考えねばならないと感じている。

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