世界をわかるためには
※本記事は、医学や政治の批判、一部の説の内容の支持、批判を行うものではありません。あくまで物事の考え方、見方について、個人的な見解を示したものであることを申し添えておきます。
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日本における昔の医学について本を読んでいた。
西洋医学が入ってくる以前には、いわゆる漢方医学が主流であった。
しかし、今の西洋医学のように、どの医師もマニュアルに従い、同じような治療や診察をする、というスタイルではなかった。
同じ漢方医学であっても、それを色んな角度から見て、
ある派閥はここのポイントを重視し、
はたまた違う派閥はそのポイントは人間の主観が入る領域だからこちらの項目だけを見たらいい、と唱えたり...
みんな分からないながらに、うんうんと自分たちの頭で考えて、人の身体の真実を明らかにしよう、治療を成功させようと必死だったのだと思う。
一方で現代では、研究や実験で治療効果について一定の見解が得られた項目に関しては、A=Bのように治療を標準化して、誰しもがわかりやすく、行いやすいようにしている。
これだけを見ると、現代では昔とは違って医療のレベルや医学の研究が進歩したから、現代の治療の方がずっと優れていると思えてくる。
たしかに、昔では治せなかった病気が、今では薬一つで治せて、致死率も低下し、寿命も伸びた。
でも果たしてこれで人間の身体、病気の発症、治療全てが解明されたのか?
いや、人間が解明できていることなんてこれだけの医学の進歩があってもまだまだ僅かだ。
まだまだ分からないこと、治せない病気や症状は沢山ある。
だから、
昔の医師たちのように、実際に自分たちで試して、頭で考えて色んな論を展開してぶつけ合うというのも、ある意味必要なことなのではないか。
身体、病気という未知の世界を明らかにしていくためには、多方面からのアプローチ、視線が無ければ全体像を明らかになんて出来ないのだから。
現代医学のように治療をマニュアル化することは安全性の面、効果の面からも一理あるけれど、それさえすればいいという思考停止状態をも生んでしまう側面があると感じた。
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数日前に、あいちトリエンナーレに行った時のことを記事にした。
この記事では、今世間で騒がれている“表現の不自由展”については敢えて触れていなかった。
展示されている内容が気に食わない、などの理由で脅迫がいまだに相次いでいるようだ。
でも先ほどの医療の話と繋がると思うのだが、どんなことでも色んな人の色んな視点、表現、意見というのは、取り上げられている事柄の全体像を明らかにしていく、包括的に理解していくためには必要なことなのではないだろうか。
その表現や展示の内容がたとえ自分の意見と違い、不快な気持ちになってしまったとしても、(表現者、発言者による嫌がらせなどの恣意的な行動ではない限り)それもまた事実のひとかけらであり、1ピースである。
その内容が良いか悪いか、気持ちが晴れるのか落ち込むのか、という次元ではなくて。
医療にせよ、政治やこの地球上の出来事にせよ、
一人が分かることなんて僅かで、
他人の意見を排除したり、こうしようとマニュアル化してそれ以外はしない、考えない、ということばかりやっていると、
どんどん見える世界は狭くなっていくのではないかと思う。
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