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洗濯石鹸は固形派ですか?ー学部時代の友人のはなし

大学の学部生のころに、友人がいた。

わたしがほうぼうで「大学生のあいだは海外にバックパッカー旅行にいきたい」と挨拶をしていたら、「わたしもいきたい」ときてくれたやつだった。

大学、大概は図書館で会うと「お茶のみいこう」といわれ(いい)、大学食堂で無料でのめる茶をかこんで「いま何読んでんの?」からはじまる話をあきることなくしていた。
そいつはいつも私が思うことの斜めうえをいくやつで、いつする話でもわたしの感覚ではありえない話を聞くことができた。相手にとってはどうだったのだろう。

そいつは旅が高じて、北京大学(短期)とカザフスタンはアルマティの大学にも留学した。「ロシア語はカザフスタンでやるのがお買い得でしょう」といっていた。そうなのかな。

ひとつの国に長期でいることが、当該の国の理解にどうかかわるかということを理解してくれたやつでもあった。
そいつはほかのどんな国よりカザフスタンに行ったときが一番変化などを敏感に理解しやすくなったとしみじみとわたしに教えてくれた。


いっしょに学部時代の師匠の発見した石碑を中国(河南省)にみにいったこともある。

そいつのロシア語を頼りに、ロシアにも行ったことがある。

「ピロシキ」は複数形なので、単体なら「ピラジョーク」が正しいなどというそいつのロシア語解説を聞きながら、モスクワでは毎晩ダイヤモンドダストのなか、チャイコフスキー音楽院の無料コンサートにいった(「寒い国には寒いときにいくべきだ」というそいつの持論にもとづき、1月にいった)。


「博物館では魂を吸われる」という迷言を吐いてくれたのもそいつだった。「博物館をみてから、次に〇〇に行こうか~」といったらいわれた。確かに「これは…〇〇時代のもので…いわれてみると確かにこれは△△時代とは違うな…ああこれは随分美しいな……」と凝視してから(しかも横から蘊蓄解説がまたすごい)博物館をでてきたときのけだるさが「吸われる」かぁ~、、、と。「博物館は……吸われる」はいまでも脳裏にしみついている。


大学4年生になって、わたしが院試にむけての勉強をしていたら、そいつは

「Kumちゃん、チベット(中国)に行こう。」

とわけのわからんことをいってきた。こっちは院試の勉強だよぅというと、

「大丈夫だ。チベットでやればいい。」

と再度わけのわからんことをいってきたので、
じゃあ旅のあいだ、過去問の論説を口頭でこたえるから、論旨に穴があったりしたら指摘してくれ、あとほかにそこでなにか知らない単語とかがでてきたりしていたらそれについても聞いてくれ、なんでもこたえるから、それをしてくれるなら行く(ちょっと半信半疑)と答えたところ、


「諾」


ときたので、上海からゴルムド(青海省)にむかう電車のなかで(そのころはまだラサまでの線路は存在していなかった。)、高山病に苦しめられたゴルムドからラサまでの寝台バスのなかで、旅行者もほかにいない小さなチベット人集落からみえる満点の星のしたで、ひたすら世界中の民族について文化人類学的問答をくりひろげていたことがあった。


ラサに近い街のひとつのシガツェのタシルンポ寺では、学業の御利益があるとかないとかいうことを耳にしたことで(よくは覚えていない)、わたしは五体投地をして、20元だかでタルチョ(チベットの祈祷旗)と同じ五色の糸をまいてあるお守りを買った。結果は本人も驚倒の現役合格だったので、いつか御礼まいりをと思っているが、未だに行けていない(そいつとの問答のおかげという説も)。

そいつは歴史学には向いていて、中国に行った時には本屋で大漢和(ランドセルかと思うほどの厚み)やどの辞書がどの作業にいいか、中身のよみかたなどを解説してくれて(そして「うっわこれ欲しい!」とかいってたが、こんなんどうやって持って帰るんじゃい…)、院に進めばいいのにと思っていたが、卒業して運輸系に就職した。

卒業してもわたしたちはときどきだべる機会をもっていた。

ある日、そいつはわたしの京都のアパートに一緒に見ようと一本のDVDをもってきた。
アケメネス朝はいいよねとかなんとかそいつはいっていたが、こっちは全然わからんと思いながら最後まで忍耐力だけで観きった。

いまでもパッケージをみると、あのときは大変な思いをしてみたなとなつかしい。

社会人になったそいつは税金や年金のことを確実にこなすことが楽しいようで、いっこうに定職につく未来のみえないわたしは、いつしかその会話がきつく感じるようになってきてしまった。
そして某研究機関とのトラブルで、事務や教授とはげしくやりあった結果、先方機関の長および副長による謝罪をうけたのだが、謝罪で済む話じゃないだろうなどとさらにやりあっているうちに、
彼女のような堅固な(普通の、というのもなんというか)人生につきあいきれなくなって(変なのはわたしのほうなんですけどね)、そこからわたしはさらなるぼっち人生にシフトしてしまった(フェードアウト)。


先方は東京なので、いまどうしているかなどは何も知らない。


大人になるということは、意外と自由で、意外ともっといろいろしていいのに、それまでの学校から受けてきた評価やあつかいによって、そのことに気づけず、その枠をそのときどきで自分で万力をかけて外して、なんとかかんとか自転車操業していくこと、でもいいのかなと思う今日このごろである。


そいつはいつも旅先で固形の洗濯石鹸をつかっていた。

ええ~粉のほうがよくない?(わたしはパキスタンの牧畜民に「あんたは洗濯を知らない」といわれたほどの洗濯音痴。初期は粉をいれてぐるぐるさえしていれば奇麗になるんじゃないかなどと思っていた)といったところ、

固形のほうが落ちるよ。
固形一択。

といわれた。

そいつは中国でも鷹牌とかいう2元の巨大な白い洗濯石鹸をつかっていた。


……
うん。
粉、重いよね。
うん、まあ、
固形、いいよね(のか?)!

というわけで、きづいたら、いまも異国で執拗に固形石鹸を買い求めているわたしがいた。
ごしごしこすって「ふはははは、きれいになったぞ」などとやっていたら(パキスタンの牧畜民のところで8歳の女児などに洗濯レクチャーを受けた。もちろん固形で。ポイントは洗濯ブラシ)
ふと、そいつのことを思いだした。

手堅い資金繰りの話とかになったらまた逃げ出してしまうのかもしれないけれど、常に斜めうえのことばかりいうあいつと、いまのわたしの研究の話ができたら、またその時読んでいる「何でそんな本をまた…」というタイトルを聞けたりするのかな、などと思う。




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