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月の砂漠のかぐや姫 第307話

「そうですっ、そうなんです!」
 母親が投げつけて来た言葉からは、羽磋の言うことがとても信じられないという疑いの念が滲み出ていましたが、羽磋はそれを聞いても眉をしかめたりはしませんでした。それどころか、彼は即座に明るい声を返しました。
 羽磋が一番恐れていたことは、母を待つ少女の母親が自分の話に腹を立てて、この場から立ち去ってしまうことでした。でも、母親はそのような事をせずに、彼に問いをぶつけてきたのです。それが疑いの念に溢れた問いであったとしても、羽磋にとっては、とてもありがたいことでした。
 羽磋には、母を待つ少女の母親の存在がどうしても必要だったのです。何故なら、自分たちが地上に上がって冒頓と奇岩との戦いを止めるために、彼女に協力を求めようと考えていたのですから。
 羽磋が話した内容をもう一度問い正してくるということは、きっと、濃青色の球体となった母親の内側では、その話を信じたい気持ちと信じられないとする気持ちの両方が、グルグルと渦を巻いているのでしょう。
 「ここが正念場だっ」と、羽磋は下腹に力を入れました。母を待つ少女の母親とこうして話す機会など、もう二度と訪れないでしょう。必ずこの場で、母親に自分の言葉を信じてもらわなければいけません。
 羽磋は大きく両手を広げて敵意の無いことを示すと、濃青色の球体の真ん中にしっかりと自分の顔を向けて話を続けました。
「おっしゃるとおりです。僕の傍にいる少女、理亜の身体の中には、あなたの娘さんの心の半分が入っています。何度も理亜があなたに『お母さんっ』と呼び掛けていましたよね。あれは、理亜の心の半分と混ざり合った娘さんの心が、そのようにさせていたのです」
 本当であれば、ここで理亜の方に振り返って、「なぁ、理亜。そうだろう?」と本人からの説明を促したいところなのですが、羽磋にはそのような余裕はありませんでした。
 それは、自分がいまどれだけ重大な場面に立っているのかを、彼が痛いほどよく理解していたからでした。自分や王柔、それに、理亜が、この地下世界を出ることができるかどうかが、自分の話を母親に信じてもらえるかどうかにかかっているのです。いいえ、それだけではありません。理亜の身体から出て行ってしまった心の半分、それを取り戻せるかどうかにも関わってきます。さらには、いま理亜の身体に入り込んでいる「母を待つ少女」という昔に話に出てくる少女の心の半分がどうなってしまうのかにも、それが繋がってきます。地上では、その少女の奇岩と冒頓たちとが戦いを繰り広げているはずですから、母を待つ少女の心がどうなるのかは、その戦いにも大きな影響を与えることでしょう。
 できる限り声や姿勢に表さないように努力はしているものの、羽磋の肩に圧し掛かっている大きな責任は、細かな足の震えとなって現れてきました。そして、ギリギリと頭を締め付けてくる緊張感のためでしょうか、自分の前に傷ついた身体をさらしている濃青色の球体が、まるで大きな丸い眼球のように思えてきました。それはただの気味の悪い眼球ではありません。ジッと自分の方に瞳を向けて凝視している様は、肉食獣が獲物を睨みつけているかのように感じられました。
 いくら濃青色の球体が恐ろしいものに見えてきたと言っても、羽磋にはそれから目を逸らすことはできません。自分が真剣に話をしているのだと示すためには、相手の目を見て話すことが基本だからです。
 羽磋は球体にしっかりと顔を向けながら話を続けましたが、彼の視界の中で、濃青色の球体がどんどんと眼球そのものに変貌していくように思えました。濃青色の眼球と化した球体に中心部に、真黒な瞳孔が現れてきました。球体の全体を彩っていた青色が瞳孔の周囲に集まって来て、濃青色の虹彩となりました。青色が消え去った部分は羊の乳のような白色をしています。そこに何本もの血管が走っている様子さえも、見て取れます。
 瞳孔が、羽磋を見つめる巨大な眼球の瞳孔が、少しずつ大きくなっていきます。眼球の表面はぬらぬらとしていて、地下世界を満たす青い光を反射していましたが、その瞳孔の部分だけは違います。その黒はすべての光を吸い込む「無」の黒でした。そして、それは羽磋の上半身ぐらい、次には頭の先から膝までぐらい、さらには頭の先から足首ぐらいと、眼球の中で占める範囲を大きくしていきます。
 羽磋はそのような怪異に惑わされないように、より一層自分の話すことへ集中しました。
「そ、それで、お、お伝えしたいのは、理亜の身体に半分入っているのは・・・・・・。いや、それは、言いましたね。ア、アレ・・・・・・」
 ところが、これまでは王柔や母親に対して淀みなく話すことができていたのに、この大事な場面で急に言葉が閊えるようになってしまいました。
 母親の問いに一義的な答えを返すところまでは、これまでの王柔との話の流れの勢いもあって、一気にできました。ただ、「自分の言葉を疑っている母親を、これから何としてでも説得しなければいけない。自分の話す内容によって、自分たちの運命が決まるのだ。頑張らなければ」と、意識を新たにしたとたんに、うまく言葉が出て来なくなってしまったのです。
 どうにかして上手く話そうと羽磋は焦るのですが、自分の思っている事を整った言葉にしようとすればするほど、それが喉に引っかかってしまって口から出てきません。焦りを募らせる羽磋は、その分も補おうとするかのように目に力を込めて濃青色の球体を見つめます。しかし、羽磋の目に映る球体は、彼を凝視する一個の眼球の姿に変わっています。そして、その中心部ではすべてを吸い込んでしまうような黒々とした「無」が、いまでは羽磋の身長よりも大きなぐらいにまで成長しています。
「ああ、あああ・・・・・・」
 濃青色の球体に姿を変えた母親に対して真剣に話をしようと、羽磋は球体を見つめながら話をしてきましたが、いまでは羽磋がそうしているのではなくなっていました。巨大な眼球と化した球体が、その槍の穂先のように鋭く尖った視線で、羽磋の身体を貫いて捕えてしまったのです。






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