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月の砂漠のかぐや姫 第306話

 もちろん、そんなことがあって良いはずがありません。それを止めるために、一刻も早く、地上に戻らなければいけません。
 では、一体どうすればいいのでしょうか。
 この地下世界はとてつもなく大きくて、どこかに出口があるようには見えません。先ほど見上げたように、地下世界の天井は王柔たちの頭からとても離れたところに有ります。地下世界の地面から何本もの太い石柱が伸びていて天井を支えているのですが、それはとても人がよじ登れるような形をしていません。
 ここまで考えたところで、王柔は自分で考えることを早々に諦めてしまいました。
 でも、それは、地上に戻って理亜の心の残り半分を助けることを王柔が諦めた、ということではありません。羽磋には何か考えがあるように、王柔には思えました。きっと、だからこそ、彼は焦っているのです。それであれば、自分がウンウンと唸りながら考えて時間を浪費するよりも、羽磋に少しでも早く行動に移ってもらった方が良い、先ほどは「自分も状況が分かった」と彼に伝えたのですが、今度はもっと具体的な言葉で判断を預けようと、王柔は思ったのでした。
「羽磋殿、何かお考えがあるんでしょう。だったら、そのとおりになさってください。それに、僕にできることがあれば何でも言ってください。おっしゃるとおりに動きます。僕は羽磋殿を信頼していますから」
「ありがとうございますっ。王柔殿っ」
 月の民は、季節に合わせてゴビの大地を移動しながら羊や山羊を育てることを、主な生業としています。その長期間に渡る遊牧生活では、人々が協力をしながら効率的に作業をすることが必要となります。そのため、何らかの役職を与えられた者は除くとして、基本的には年長者が尊重され若者はその言葉に従うという原則が、彼らの中で共有されているのでした。
 何か作業をするときに、幾つもの異なる指示が飛び交うようでは困ります。指示役は一人でなければ効率的な作業はできません。年長者はもちろん経験をたくさん積んでいますから、遊牧生活の様々な場面で適切な指示を出せるというものです。それに、ゴビと言う厳しい環境の中で自分よりも長く生きている人に対しては、自然と尊敬の念で頭が下がりますから、年長者を指示役と決めればその座を巡って争いになることも少なくなります。つまり、「若者は年長者に従う」という原則は、彼らがゴビで生きるための術の一つなのでした。
 羽磋と王柔、それに理亜が、川を流されて地下世界に入り込んでからこれまで、三人で青く光る水を湛えた池の淵を調べたり、そこから伸びる洞窟の中を歩いたりしてきました。その中で、考え判断をする役割が自然と羽磋に巡って来ていたのですが、子供の頃からこの原則が身に沁みついている羽磋は、必ず自分の考えを王柔に説明をし、その理解を得てから行動していました。この切迫した状況の中でも、王柔が理亜の心の状態を理解できるようにと羽磋が言葉を尽くしたのは、その習慣があってのことでした。
 さらに、羽磋がそれだけの丁寧な説明をしたのには、別の理由もありました。
 年長者である王柔からこの場の指揮を明確に一任された羽磋は、王柔に頭を下げた後で勢いよく身体を翻すと、腹の底からの大声を出しました。
「なんてお呼びして良いのかわかりませんが・・・・・・、お母さんっ。聞いてのとおりですっ。いまどういう状況にあるかおわかりになりましたかっ」
 羽磋が呼びかけた先は、先ほどまで羽磋たちに激しい憎しみをぶつけていた、濃青色の球体、すなわち、母を待つ少女の母親でした。語尾が切り上げられた羽磋の声には、彼の急いた気持ちが現れていましたが、そこには母親に対する敵意は見られませんでした。羽磋は自分が話した内容が伝わっているかを、しっかりと確認したいだけのようでした。
 そうです。羽磋は主に王柔に対して、理亜と母を待つ少女に何があったのか、そして、いま地上でどのようなことが起きているのかを説明していましたが、この場にいたのは彼らだけではなかったのです。ひどく傷ついた濃青色の球体もその場にいて、羽磋に対して「その赤い髪の少女は、黒髪であった私の娘とは全く似ても似つかない。それなのに、その少女が私の娘だと言うのか」と、激しい勢いで問いかけていたのです。
 その疑問に対する答えを母親がどれほど切実に求めているか、羽磋もよく理解していました。彼が王柔に対して、一見回りくどいと思えるほど丁寧に、さらに、大きな声で、理亜の身体に起きたと思われることを説明したのは、母親にも自分の説明が届き、彼女がその内容を理解できるようにするためでした。
 羽磋の意図したとおり、彼と王柔が交わす言葉は母を待つ少女の母親にもしっかりと届いていました。でも、母親は王柔のように羽磋の説明に対して口を挟むことはありませんでした。それは、羽磋の言葉を聞き取ることに、彼女が全神経を集中していたためでした。
 遠い昔に、とてつもなく大きくて冷たい絶望に心を押しつぶされた彼女は、地面の割れ目に身を投じ地下世界に落ちました。そこで半ば悲しみの精霊のような存在になり長い年月を過ごしてきた彼女は、つい先ほど赤い髪の少女が地下世界にやって来て「お母さん」と呼び掛けるまで、外部の情報を取り入れて物事を考えることを止めていました。彼女にとっては、「自分は病に倒れた娘を救うために、存在すらあやふやだった薬草を求めて旅に出た。でも、苦労に苦労を重ねてそれを手に入れて戻ると、娘は砂岩の塊となっていた」と言う遠い昔の事実と、「地下世界に娘と似た気配を持つ者が降りてきた。その少女は自分を『お母さん』と呼ぶが、娘とは全く似ておらず明らかに別人だ」という直近の出来事だけが、情報の全てなのでした。
 そのため、羽磋が話すことの全てが、母親にとっては新しい情報でした。それも、彼の話の内容は自分の大切な娘に関することでしたから、彼女は濃青色の球体となった自分の身体の全てを耳にして羽磋の言葉に集中し、その意識の全てを聞いたことの理解へと振り向けていました。羽磋が理亜と王柔に話をしている間、近くにいるはずの母を待つ少女の母親の存在が消えたかのようになっていたのは、そのためでした。彼女はとても自分から声を出せる状態ではなかったのです。
 その母親に対して、羽磋が「わかりましたかっ」と声を掛けてきたのです。ということは、羽磋の話が一段落したということです。
 羽磋から聞き取れる情報はこれまでだということを理解した母親の口から、彼女の内側で大きく膨れ上がっていた思いが、次々と飛び出してきました。
「で、では、そこにいる赤い髪の少女の中に、私の娘の心の半分が入っていると言うのだな? そして、残りの半分は私が遠い昔に見た砂岩の像の中に入っていると。それに、何といった? あの砂岩の像となった娘が、この上のヤルダンの中で戦っているだと? 動くはずもないあの砂岩の塊が?」







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