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月の砂漠のかぐや姫 第308話

 もう羽磋は、自分の指一本でさえ、自由に動かすことができなくなっていました。
 なんとか話を続けようと開いていた口から、意味のある言葉を出すこともできません。それどころか、呼吸をすることさえも困難になっています。
 どうしてこうなってしまったのか、もちろん羽磋にはわかっています。でも、それらを引き起こした原因である恐ろしい眼球を、目を閉じて見ないようにすることもできないのです。
 羽磋は、目前に浮かぶ巨大な眼球の表面で、「無」へと繋がっている黒い瞳孔がどんどんと大きくなる様を、ただ見つめ続けるしかありませんでした。
 ふと、羽磋は確信しました。「あの瞳孔に自分は吸い込まれて消えてしまうのだ」と。
 そう思った瞬間、羽磋の肩に重く圧し掛かっていたものが、まるで始めからそのようなものはなかったかのように、消えてしまいました。また、身体を自分の意志で動かせないもどかしさも、無くなりました。
 羽磋の身体全体から、すうっと力が抜けました。彼は、抗うことを止めてしまったのでした。
 だって、あの眼球の前面の大部分を占めるようになる迄大きくなった瞳孔に、もうすぐ自分は吸い込まれて消えてしまうのですから、これ以上、どうにかして声を絞り出そうと喉に力を入れる必要はないのです。自分を押しつぶそうとする重圧に、全力を振り絞って耐える必要も無いのです。
「ああ、ここまで本当にしんどかった。でも、ここで終わったら、もう頑張らなくていいんだよな。そうしたら、きっと楽になれる・・・・・・」
 羽磋は心の中で、誰にともなく呟きました。
 羽磋の目は開いているものの、彼の瞳が写したもので彼の意識にまで届いているものは、何もありませんでした。羽磋は自分の思い浮かべた世界にすっかりと没入していたのです。ただ、まるで深夜にオアシスの水の中へ飛び込んだのだと錯覚しそうなほど、その世界は真っ暗でした。羽磋は何も見えず何も聞こえないその中で、身体の力を抜いて揺蕩っているのでした。
「どうしたっ! 答えろっ!」
 雷が岩山の頂上に落ちた時のような激しく震える怒鳴り声が、羽磋の暗い意識世界全体を揺らしました。その声はとても大きな力を持っていたので、内に意識を向けていた羽磋も流石に意識せずにはいられませんでした。
 暗闇に身を委ねながら、羽磋は思いました。
「うわっ、あの球体、母を待つ少女のお母さんも、すごく怒っている。だけど、無理だよ、どれだけ上手く言葉にしようとしても、ちっともしゃべれやしない。これじゃ、あんなに怒っているお母さんを説得するなんて、とてもできやしない。こんなに大事な時なのに・・・・・・。駄目だ、いくら頑張っても、駄目だ。ああ、早く俺をその瞳の中心に巣食う無の中に吸い込んで楽にしてくれよ・・・・・・」
「駄目だよっ!」
「ああ、本当にそうだ。俺は駄目な男だよ」
「違う! 羽は、羽磋は、駄目な男なんかじゃないっ。諦めたら駄目だよって言ってるのっ! 羽磋は、こんなところで終わる人じゃないよっ」
「はいはい、竹は、いやいや、輝夜はそう言うけどさ。俺だって・・・・・・・、って、ん? いま、俺は何を言った。輝夜・・・・・・、そうだ、輝夜!」
 羽磋は自分の口から出た言葉に、自分自身で驚いていました。「輝夜」、そう、確かに「輝夜」の名を自分は呟いていました。それに、輝夜姫の声もどこからか聞こえてきていたような気がします。一体どこから彼女の声が聞こえてきたのでしょうか。この地下世界に輝夜姫がいるはずもないのに・・・・・・。
「輝夜・・・・・・」
 暗闇と化した自意識の中を漂っていた羽磋は、その大切な名前を、もう一度心を込めて呟きました。
 すると、どうでしょうか。
 彼の胸の中心がジワッと温かくなったかと思うと、そこに朝日のように鮮やかな光が生まれ、次の瞬間にはそれが周囲にパァッと広がったのです。その光は、羽磋の意識の中を満たしていた無力感と諦めと言う闇を、あっという間に追い出してしまいました。
「輝夜、ああ、そうだ。輝夜! 確かに、俺はこんなところで終わるわけにはいかないんだ。お前と一緒に世界を見て回るんだからな。そして最後には、一緒に月に還るんだからなっ」
 頑張ることを諦めて身体から力を抜いてしまった羽磋は、もうどこにもいなくなっていました。自分の心の中に逃げ込もうとしていた羽磋は、しっかりと現実の世界に意識を向けられるようになっていました。
 彼の目には光が、背筋には力が戻っています。
 羽磋は拳をグッと握りました。彼の両手は固く握られ、そこに意志と力が込められました。
 動きます。羽磋の身体は彼の意志に沿って動きます。しかも、彼の身体は、それを喜んでいるかのようです。
 羽磋の目に映るものと言えば・・・・・・、外殻の破れた個所から幾つもの青色の煙を吹き出している、傷ついた濃青色の球体です。先ほどまで羽磋を飲み込もうとしていた、黒々とした巨大な瞳孔など、そのどこにも見当たりません。
 羽磋には、もうわかっていました。
 先ほどまで自分が見ていたものは、自分が自分に見せていた幻影だったのです。自分たちを深く疑っている「母を待つ少女」の母親に上手に事情を説明して、なんとしてでもその協力を得なければいけない。それがどれだけ大事な事かは、痛いほど良くわかっているのですが、そう思えば思うほど声が出なくなってしまうのです。とうとう、羽磋はその重圧から逃れるために、そうです、はっきりと言えば楽になるために、自分で自分にそのようなものを見せてしまっていたのでした。









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