見出し画像

愛なんて信じない

 隣で眠る幼馴染の旋毛を眺めて5分ほど経った頃、寝返りをうった彼がおはようと微笑んだ。その隙だらけの顔に、どうにも居たたまれなった私は、おはよ。と小さく答えてベッドから出る。

 恭太とは、家が隣同士で物心がついたときからずっと一緒だった。街から少し離れた田舎で生まれた私たちには、同い年の子供の存在は貴重で、まるで兄妹かのように育った。

 しかし、私は県内随一の進学校に、恭太は高等専門学校──いわゆる高専に進学したことでしばらく疎遠になっていた。そんな恭太と再会したのは、大学3年の時。東京の大学に通っていた私の元に、大学編入を期に上京した恭太がメッセージを送ってきたのだ。それから、2か月に1回のペースで遊ぶ仲になり、現在はふたりそろって社会人5年目。

 コーヒーを淹れると、俺も~と気の抜けた声が聞こえる。そう言うと思って一緒に淹れておいた、恭太用の砂糖なしミルク多めのカフェラテを渡した。

「わかってるじゃん」
「まあね」
 
 恭太は未だにブラックが飲めない。思えば、人生で最初にコーヒーを飲んだのも恭太と一緒だった。小学2年の時、通学路にあった自動販売機の缶コーヒーが妙に美味しそうに見えて、ふたりでお小遣いを出し合って買ったのだ。お互い飲んだ後の歪んだ顔を見て笑ったのを覚えている。子供の舌には苦すぎたその飲み物を、じゃんけんで負けた方がひと口飲むというルールで家に着くまでに飲み切った。

 私だけブラックを飲めるようになったことについて、彼はどう思っているのだろうか。きっと気にも留めていないに違いない。それでも、私だけ大人になってしまった気がして嫌だった。

「あと3日だね」
恭太が言った。それには答えず、今日は何する?と問うと、「海に行こう」と何度も聞いた言葉が返ってきた。
「えー、昨日も行ったじゃん」
「それでも行きたいんだよ」
「まあ、いいけど」
 私たちが育った町から海は遠かった。その反動か、恭太は海が好きになったらしい。私が山の方が好きということは、恭太には言えていない。

 海に近いこのマンスリーマンションを選んだのは恭太だった。1か月と少し前、「みーちゃん、また秘密基地作ろうよ」と言い出した恭太に、私は「いいよ」と即答した。子供の頃、私たちは秘密基地を作り、放課後のほとんどをそこで過ごしていた。人目の届かない秘密基地は、世界に自分たち以外いないように思えて、無敵になれる場所だった。子供の頃の楽しい思い出の全てがそこには詰まっている。だからこそ、恭太の提案に心が弾んだ。

 そして、大人になってある程度の経済力を持った私たちは、2人の職場からそう遠くないマンスリーマンションを秘密基地にした。言わないけど、失われたひと夏をやり直そうとしているのがわかる。私だってあの夏に戻れるならそうするし、何年も経った今でもあの時とは違う道を脳内でシミュレーションしている。だけど、戻れない。だから、やり直すのだ。

 別々の高校に行った私たちだが、1年の夏までは秘密基地で会っていた。

「ねぇ、高専はどう?」
「んー、普通。最近そればっか聞くね」
「だって、高専って普通の高校と違うんでしょ? 気になるじゃん」
「3年までは普通の高校生みたいなもんだよ」

 そう言う恭太の髪は茶色く染められていて大人びて見えた。ずっと同じ歩幅で歩いてきたはずなのに、高校生になってからの5カ月間で大きな差ができてしまったようで焦りを覚える。

「私も染めようかな~」
「みーちゃんはそのままでいいよ。クラスの女子たちみんな髪染めてるけどさ、やっぱ女の子は黒髪の方がいいなって思う」

 女子たちと括られた茶髪のクラスメイトと、彼好みの黒髪の自分。少しだけ優越感を感じた。だけどそれを気取られないように、「そっか」と興味がない振りをする。私にとって恭太は特別な存在だったし、彼にとっても私は特別な存在のはずだった。お互いのことは何でも知っていたし、なんでも話せた。1番信頼できる相手だった。

 そんなある日、私がひとつ上の先輩に告白された。勉強でも部活でもよい成績を残している人で、彼に恋焦がれている子も少なくはなかった。当たり前のように、恭太にもその話をした。

「へぇ~。それで、付き合うの?」
「まだ決めてない。きょうちゃんはどう思う?」
「好きにしたらいいよ」
「えー、なんか冷たいよ」

 やめときなよ。という言葉を心のどこかで期待していた。恋愛とかよくわからないけれど、自分たちの関係を壊すかもしれないものを否定して欲しかった。私はムキになって、その先輩と付き合うことにした。そのことを恭太に告げると「そっか」と一言だけ言われた。

そして恭太は秘密基地には来なくなった。

 拗ねるくらいなら初めから嫌だって言えばよかったのに。言ってくれたら私も付き合わなかったし、恭太との時間より大切なものなんてないと思っていた。だけど、私たちの関係はいつの間にか兄妹とは違ってきていたのかもしれない。

 しばらくして、同じ中学だった晴美と駅で偶然会った。そのとき、恭太に3つ上の彼女ができたことを聞いた。少し驚いた顔をすると、「え、みなちゃんなら知ってると思ってた」と言われた。1番近い存在だった私が知らずに、同じクラスだっただけの晴美が知っているのが悔しくて、「ううん、晴美が知ってることに驚いただけ」と誤魔化した。

 そのあとどうやって帰ったのかはよく覚えていない。気が付けば、自分の部屋で声をあげて泣いていた。こんな気持ちになるくらいなら、初めから先輩と付き合うんじゃなかった。恋心の自覚と同時に私は失恋した。恭太とは、それきり会っていなかった。


 江ノ電に乗って海にやってくると、いつものように防波堤に横並びで座った。湘南の海は、相変わらず美しかった。ふと、初めて2人でここに来た時のことを思い出した。同じように海を眺めながら、私はなぜこの“やり直し”を提案したのかを恭太に問うた。彼は「今はまだ言えないけど時が来たら言うよ」と言った。彼の言う“時”とはいつなのだろうか。時が来ないと言えないようなこと──もしかしたら彼は、このやり直しで何かを試しているのかもしれない。例えば私との将来を考えられるかとか。もしそうだとしたら、私はこの1カ月弱、将来を考えるにあたって優秀な成績を残せたのではないだろうか。高校から大学にかけてのブランクが嘘かのように、私たちはあの頃のような関係に戻れていた。この居心地の良さは、今まで何人かと付き合ったが感じることはなかったものだ。恭太もきっとそうに違いない。

 いつものように他愛のない会話が始まると思っていたが、今日はなかなか口を開こうとしない。しびれを切らしたのは私の方だった。

「そういえば、いつも行くカフェの今週末の日替わりメニュー、美味しそうだったよ」

 ようやく思いついた話題を口にするが、恭太の反応は鈍く、「ああ」と答えただけだった。彼の方みるといつになく神妙な面持ちをしている。

「美奈都、言いたいことがあるんだ」

やっと口を開いた彼はもう、私をみーちゃんとは呼んでいなかった。言いたいこととはこの”やり直し”の理由なのだろうか。
もし告白だったらなんて答える? 「私もずっと好きだった」とか「もっと早く言ってよ」とか? とにかく気の利いた言葉を言わないといけない。

「なあに?」
「俺さ……」

 言いにくそうに顔をしかめる恭太に微笑みを向ける。私はその言葉を受け取る準備はできているから安心して言っていいんだよ、そんな気持ちを乗せて。

「──俺、結婚するんだ」

 バリンと何かが割れる音がした。実際にはなにも割れていないのに。割れたとしたら私が抱いていた淡い期待だろうか。崩れてしまった笑顔をもう一度作り直して、精一杯の平常心を見せつけながら私は言う。

「そうなんだ、おめでとう。どんな人?」
「大学の同期。去年飲み会で再会して、あっちから告白してきた」

 プロポーズも相手かららしい。ああ、私はまた同じ過ちを繰り返してしまったようだ。恭太は昔から変わらず恭太のままで、自分から決して好きとは言わず、常に受け身で。私が繋ぎ止めておく言葉を言わないと、勝手に離れていく。

──受け身なのは私も同じか。

 どちらかが自分を変えない限り、受け身な者同士な私たちは一生噛み合うことはない。いや、この“やり直し”を提案したことは、彼なりの変化だったのかもしれない。これを始めた時点では、まだ私には可能性があって、本当に必要だったのはあの頃のような居心地の良さではなく、想いを口にすること。いずれにせよ、もう私には可能性はない、それだけは確かだった。

 次の日に秘密基地を引き払うと、私たちは再びそれぞれの人生に戻っていった。ふたりの人生の重なる可能性がそこにあったことを感じながら。

***

 それから10年、私は相変わらず独りだった。何人か付き合った人はいたが、やはりぴったりとはまる何かが足りない。居心地の悪さを拭い切れないことで、私から別れを切り出していた。

 そして、今日は地元で開かれる中学校の同窓会。恭太も来ると幹事である晴美から聞いた。今更なにかを期待しているわけではないはずなのに、少し緊張してしまうのはなぜか。

 当着順で押し込まれた居酒屋の席に着くと、斜め前に見慣れた顔があった。彼はこちらに気づくと軽く手をあげて合図を送った。その左手の薬指にはなにもついてはいなかった。

この記事が参加している募集

スキしてみて

いつか、みんなに支えられて生きていると実感できるように。