感想:映画『マーズ・アタック!』コラージュによる地球侵略

【製作:アメリカ合衆国 1996年公開(日本公開:1997年)】

米国に多数の未確認飛行物体が飛来し、それらが火星からのものだとわかる。
火星人からのアプローチを受け、米国政府は地球を代表して彼らを迎え入れることを決める。文明を持つ者は友好的であるという科学者の意見を受け入れた大統領は、歓迎の意を示すセレモニーを開くものの、式典の場で火星人は光線銃を取り出し、地球人を殺害し始めるのだった。
その後、火星人への対応を巡って地球人どうしが争う中、火星人は次々と地球に飛来し、殺戮や破壊を進めていく。
果たして地球の命運はいかに……?

本作は既存のSF作品のパロディを含んだコメディであり、外敵である火星人の侵攻を通じて、地球内部にある権力構造やイデオロギーの対立を風刺的に描いている。
また、1990年代半ばに製作された本作は、3DCGをはじめとしたVFX、スーツアクターを用いたSFXをふんだんに用いて火星人の地球への侵攻を描く。個人的にはこれらの技術や編集が持つコラージュ的な性質が印象的であり、インターネット普及後の映像観・社会観を先取りした作品であるようにも感じた。

地球外生命体の登場するSF作品においては、未知の存在に相対した地球人の態度によって、現実世界の社会構造が浮き彫りにされる場合がある。
その描き方は作品によって様々だが、本作においては右翼・左翼をどちらも滑稽に描き、相対化する姿勢がとられている。
得体の知れない存在の友好性を信じ、地球人が一方的に多数殺害された状況でも対話を第一に考える左翼(科学者)も、銃器や大量破壊兵器を使うことそのものが目的化し、マッチョイズム的性質の強い右翼(軍人)も、どちらも火星人への対処においては役に立たず、呆気なく命を落とす。
また、自身の意思や理念を持たない権威(大統領)や、虚飾的なコマーシャリズム(テレビアナウンサー)も同様に火星人の前では無力な存在である。
これに対し、火星人の侵攻から逃げ延び、地球や身近な人間を救うことに成功する「英雄」は「男らしくない」人々だ。
火星人撃退の立役者であるリッチーは、周囲には従軍・殉職した好戦的な兄のビリーと比べて気が弱く、頼りない人物とみなされている。しかし、差し迫った状況で介護施設に住む祖母を助けようとする優しさと、彼女の好む"Indian Love Call"が火星人にとって致命的であることに気づき、ラジオを通じて全世界への拡散を行う機転が世界を救うことになる。
仲間のために囮になり、火星人との肉弾戦の末に生き延びるラスベガスのパフォーマー・バイロンもまた、マッチョイズムと距離を置く人物である。格闘技の世界王者として名声を得たものの、 放蕩の末にパートナー・子どもとの別離を経験した彼は、「男らしさ」を手放している。イスラム教に帰依して実直に生き、自身の力の適切な使い方を認識していることが、彼が前述の権威達と異なり生還する理由といえる。

彼らの他に、シューティングゲームで培った腕で火星人と互角に戦うバイロンの子ども達など、本作には、ステレオタイプな「男らしさ」に疑義を呈し、その価値観の中では「軟弱」とみなされる傾向のあるカルチャーに力を与える姿勢がある。
文化系の少年がその気質を以て世界を救い、異性(当時アイドル的な存在だったナタリー・ポートマン)の愛を得る筋立てはいわゆる「オタク」の男性に都合の良いもので、結局は伝統的な英雄譚の再生産に落ちついたという印象も強かった。
ただ、本作におけるカルチャーの位置付けは、後述の映像面での特徴と相まって、1990年代半ばのメディア環境を象徴していた。

本作の映像は、カットの切り換えが多く、様々な素材をコラージュしていることがわかりやすいものである。
特に印象的だったのは、火星人が光線銃によって地球人を殺害するショットと、後半の火星人が地球各地に侵攻するシークエンスだ。
火星人はシーンによって3DCGと人形(着ぐるみ?)を使い分けて表現されており、光線銃で人間を撃つ場面では基本的に前者が採用されている。
本作の技術的条件では3DCGで造形されたキャラクターと実写の人間に同じフレーム内で滑らかにアクションを行わせることが難しかったのか、光線銃による殺害シーンでは「火星人が銃を撃つショット」と「撃たれた地球人が皮膚と肉を失い死に至るショット」は分けられており、必ずカットが切り換わる。地球人と火星人が双方の肉体(死体)を検分・解剖するシーンや、バイロンと火星人集団の戦闘シーンなども存在するものの、両者が生きた状態で同じ画面に収まるショットは少ない。
この映像上での物理的な距離は、地球人と火星人のディスコミュニケーション(厳密には、火星人のみが地球人の言語を解し、自分たちの言語を理解できず曲解する地球人を茶化す一方向性)とリンクする。また、カットの切り換えによって生じるラグは、本作における人の死にテレビゲーム的な虚構としての側面を与える。
また、火星人に撃たれた際、地球人の皮膚と肉はエフェクトとともに瞬時に消失し、骨のみがそこに残る。こうした生々しさの欠如もまた、本作における死の虚構性を演出するものだ。

実写映像とVFXを織り交ぜた本作は、現実とフィクションを等価のものとして取り扱う。
後半の火星人侵攻の際には、実在の建物やドキュメンタリー/ニュースの映像(聖地に向かって祈るイスラム教徒を捉えたショットなど)と、各所を破壊・支配する火星人のショットが接続される。
ここには、「現実を加工してはならない」といった、ノンフィクションを特別視するまなざしはなく、すべての映像が作品を構成するための素材としてフラットに取り扱われる(火星人に捕えられたナタリーとケスラーが、身体を分解された上で他の生き物などとコラージュされるシークエンスは、こうした本作の姿勢を象徴する)
序盤でリッチーや大統領の娘タフィが、地球人が次々と殺害される様子をテレビの生放送で目の当たりにした際に、映画を鑑賞しているかのような淡々とした感想を持つ様子や、ゲームのテクニックがそのまま火星人への対抗に役立つ描写も、フィクションと現実の境界が曖昧であることを示す。
これは"Nintendo War"と呼ばれた湾岸戦争を彷彿とさせる描写であり、また、90年代後半以降にWEB上で発展するコラージュ文化に通じてもいる。
本作の制作・公開はWindows95の登場と同時期である。インターネットの普及とそれに伴う情報・映像加工技術へのアクセシビリティの向上は、新たなカルチャーを生み出し、既存の価値観を転倒させるほどの影響を与えた一方で、多くの情報を「俯瞰」できる性質によって、ユーザーの社会に対する冷笑的な態度を育みもした。
インターネットの功罪が明らかになった現代の視点からみると、『マーズ・アタック!』はそうしたインターネットの社会の席巻、あらゆるものを相対化しコラージュする文化を、良い面でも悪い面でも予期しているといえる。
また、アメリカ同時多発テロ後であれば、本作ほどの規模の商業作品で現実の映像をコメディタッチの殺戮シーンの素材にすることは難しいのではないかと思われ、そういった意味でも1990年代半ばだからこそ成立した作品という印象を受けた。

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