感想:映画『なんだかおかしな物語』 レールを外れることへの恐怖

【製作:アメリカ合衆国 2010年公開】

高校生のクレイグは、希死念慮や食べたものを嘔吐する等の症状があり、自ら精神科への入院を希望する。
小児病棟が改装中のため、成人病棟に入ることになった彼は、重度の疾患を抱えた人々の姿を目にする。
最初はショックを受け、入院を取りやめようとするも、医師の判断もあり数日は病院で経過を見ることに。
症状・人種・性別・性格の様々な患者達との交流を通して、彼も自分が何に苦しんでいるのかに向き合い始める。

精神科に1週間入院することになった高校生の姿を通して、エリート主義の生きづらさや弱者の姿が見えにくい社会構造を明らかにする作品。

主人公クレイグは希死念慮などの抑うつ症状に悩む高校生だ。
教育熱心な両親のもとで育ち、進学校に入学したものの、同級生は自分以上に成績が良くバイタリティのある人ばかり。大統領や宇宙飛行士にはなれそうにないと感じ、現在のペースで勉強を続けることに限界を覚えるものの、他にやりたいことも見つからない。
作中で本人が口にするように、クレイグは「恵まれた環境」で育った人物だ。
家計にゆとりがあり、教育を受ける機会を十分に与えられ、両親もやや理解に欠けるところはあるものの、クレイグにつらく当たることはない。
そんな環境で育ったクレイグは、社会的なステータスの高い職業を目指す以外の選択肢を持たない状態だ。
彼にとって、経済的に困窮していたり、様々な理由でうまく働けない、いわゆる「弱い」立場の人々は、自分の世界と地続きのところにはいない存在だった。(友人アーロンとダウンタウンに出かけた回想シーンがあるが、「観光」感覚であり、街やそこに住む人を理解しようとしたものではないことが窺える)

そのため、当初のクレイグは重症の患者たちと同じ病棟に入ることを拒む。彼らと自分を同一視されるのを嫌がり、入院していることを学校の同級生に言わないよう家族に頼む。
こうした「弱い者」に対する偏見や差別的なまなざしは、少なくない数の人が持っているものだと考えられる。それは知識や他者に対する想像力の不足によるものだ。
また、「弱さ」を否定する考え方は、自分が心身にダメージを負い、困窮した際に、その弱さを他者に明かせず、自分を苦しめることにつながる。
クレイグが入院したことで、優等生のアーロンとニアが「自分も落ち込むことがある」「メンタルの薬を服用することがある」と初めて吐露するのもそうした「弱さを他人に明かせない」状態の表れだといえる。

クレイグは精神科でボビーをはじめとする多くの患者と出会い、彼らと関係を築くことで考えを変えていく。
誰もが懸命に生きているが、なかなかうまくいかず、退院や自立への目処が立たない者もいる。彼らが苦しむ理由に、少数派の人種や宗教、思想信条に対する社会のまなざしが関わっていることも示唆される。
患者達は傍目から見れば筋の通らないことを呟いたり、多くの人にとっては取るに足らないことで躓くが、一方でそれぞれに個性を持ち、少しずつ成長していく(本作のプロットのひとつは、部屋から出られなかったエジプト人のルームメイトが少しずつクレイグに心を開く過程である)

芸術が彼らのセラピーとして機能する描写も興味深く、絵画のクラスでも演奏のクラスでも、それぞれが思い思いに自己を表出することでコミュニケーションが生じ、互いを知り合う契機になる流れは印象的だった。
中でもクレイグをボーカルに"Under Pressure"を合奏する場面は、ロックバンドの扮装でスタッフ・患者がのびのびと演奏するイメージと、現実の演奏のまったく調和しないめちゃくちゃさが相まって非常に良いシーンだった(この作品を象徴する映像だと思う)

ジャンルとしてはコメディであり、軽快なトーンで展開する本作だが、社会復帰の難しさなどシビアな描写もある。
クレイグが病棟で最初に打ち解けたボビーは、6回自死未遂を行って入退院を繰り返している。
彼はグループホーム入所を決め、クレイグと同日に退院するが、その後彼がどうなったかは明かされない。
退院後も会おうとクレイグはボビーに電話番号を教えるものの、最終盤に示されるクレイグの退院後の暮らしの中にボビーの姿はなく、連絡が取れず再入院もしていない(=自死に及んだ可能性もある)ことが窺える。
患者達の多面的な姿やその変化を捉えつつも、実際に彼らが社会に再び出る上での困難、一度失敗すると立ち上がるのが難しいシステム・風潮が示されていた。

クレイグの状態に対し、医師や両親といった大人達が短絡的にレッテルを貼ることなくシリアスに受け止め、友人達も決して馬鹿にすることはない点は倫理的に非常にしっかりしていると感じた。(アーロンはやや茶化しているが、最後に謝罪する)

また、クレイグの回想シーンにおいて、5歳の彼が「モーツァルトはこの年齢で既に作曲を始めている、自分には何もない」と言うのが印象的で、個人的にこの感覚にはかなりシンパシーを覚えた。
自分と同年齢・同年代で社会において評価されたり、成果を残している人物がいると、時間という条件が同じだけに焦りや嫉妬、無力感が増幅されるのだろうと思う(実際にはそれぞれ与えられた環境は千差万別であり、"等しい条件"は存在しないのだが)

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