感想:映画『ピッチ・パーフェクト』 アカペラとマッシュアップの共通点

【製作:アメリカ合衆国 2012年公開(日本公開:2015年)】

バーデン大学の入学式。DTMに熱中するベッカは、教授である父親の意向で進学したため、大学生活に意欲が湧かない。
気が進まないながらもサークル新歓に赴いた彼女は、女声アカペラ部「バーデン・ベラーズ」に勧誘される。
歴史はあるものの、レパートリーやスタイルが更新されず、また前年の全国大会のステージで現リーダーのオーブリーが嘔吐した出来事も相まって、ベラーズは落ち目の状態。
ベッカのほか、様々な個性を持つメンバーが入部するも、チームワークがとれず、なかなか軌道に乗らない。
ライバルの男声アカペラ部「トレブルメーカー」との小競り合いや交流もまじえ、彼女たちが全国大会へのリベンジを図る姿を描く。

ポピュラー音楽のアカペラでは、楽器を用いず、ヒューマンビートボックスやボイスパーカッションによって、伴奏も含め人間の声のみで楽曲の演奏が行われる。
同ジャンルを代表するグループ・ペンタトニックスのように、既存のポップスを用いてパフォーマンスするのもその特徴である。

本作ではこうしたアカペラの性質および、複数の既存の楽曲をつないで新しい曲をつくりだすマッシュアップの特徴が、多様性や個性の尊重というテーマとリンクする。

落ち目のベラーズの新入部員は、いわゆるスクールカースト上位に位置するタイプとは異なるメンバーが多い。
既存の部員であるオーブリーとクロエは華やかな人物像で、前年までは「イケてない」入部希望者を拒んでいたことも窺えるが、前述の出来事で存続そのものが危うい状況の中、希望者全員入部で部はスタートする。
本作は大学における文化系部活の様相を描く作品でもある。冒頭のトレブルメーカーのハイクオリティなパフォーマンスや、学内での堂々とした振る舞いが示すように、彼らは自分達(の部活動)に誇りを持っている。しかし、高い歌唱力を持ちながらも「オタク」であるという理由でベンジーがトレブルメーカーの入部オーディションに落とされる通り、その中でも階層構造や偏見は存在する。また、オーブリーの部活の伝統に固執する姿勢や当初のベラーズのユニフォームが示すように、画一性を求めるような姿勢もみられる。
しかし、全くタイプの違う人々が、それぞれの個性を保ったままひとつのハーモニーをつくりだす物語を経て、最終的にベンジーはステージで歌を披露する。また、本作はベッカの入部希望者に対する「オタクども、いくわよ」という台詞で終わり、彼女達があらゆる個性を受け入れる姿勢であることがわかる。作中で『ブレックファスト・クラブ』が取り上げられることも、個性が異なる者どうしの邂逅と協同を描いた本作のテーマを象徴していた。

これは趣味嗜好に留まらず、人種、性的指向や体型などについても同様であり、ベラーズにはアフリカ系・アジア系、レズビアンのメンバーがいる。(レズビアンのシンシアについては、チームメイトのステイシーを襲おうとするなど描写にバイアスが見られるが)
また、プラスサイズのファット・エイミーは、周りに「太っている」と言わせないために自ら「ファット=太っちょ」と名乗っているという設定で、コメディタッチながらも彼女がルッキズム的価値観に晒されてきたことが窺える。さらに終盤でエイミーは本名が「パトリシア」であると告白し、自分の名前が形容詞で貶められることを徹底的に回避しようとしていると解釈できる。
彼女達が自分の属性にコンプレックスを持つことなく、自分自身を生かせる場所としてアカペラ部は機能する。ベラーズが再起を決断する場面で歌われるのがブルーノ・マーズの『Just The Way You are』であり、本作が「ありのままの姿」を重視していることがわかる。

アカペラは既存の曲を複数の音に分解し、それぞれを把握した上で再構成する作業である。アカペラではパーカッションやベースなど、リズムを担う役割のメンバーも注目されるが、「縁の下の力持ち」とされるそうした役割の重要性が改めて浮き彫りになるのはアカペラによる分解-再構成の効果のひとつといえる(本作のタイトル『ピッチ・パーフェクト』もリズムの重要性を物語る)
また、よく知られた曲を別の人間が歌うことは、その曲のオリジナルのイメージ、ヒットした背景や歌い手の考え、演出など、付随する複数の文脈を束ね、新たな意味を生じさせることでもある。
加えて、マッシュアップもまた、それぞれの曲の構成要素や文脈を理解して初めて成り立つ形態である。
アカペラでマッシュアップを再現するベラーズのパフォーマンスの重層性は、メンバーの個性や多様性を尊重した上で調和によって莫大なエネルギーを生む本作の構図とリンクする。

お題を決めて即興でアカペラ合戦を行うリフ・オフのシークエンスも面白く、既存の楽曲をいかにアレンジするか、いかに演じるかという点は他の作品を観るときにも注目していきたいと思った。アカペラとは対照的に、パフォーマーが声を発さないドラァグクイーンのリップシンクについても考えてみたい。

また、終盤までのベンジーの扱いは倫理的な面でひどいのだが、ベン・プラットに歌わせないというのは本当に人を見る目がなさすぎる……とずっと思っていた(容姿や振る舞い、趣味が気に入らないために明らかに巧い人に不当な評価をする不均衡を表しているのだとは思う)

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